![カンタン系[改訂復刻版]](k_title.gif)
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日記の主要登場人物とあらすじ
●●●●●雑評とか割と読まれる文章●●●●●
7月のオススメ
レッシグ×山形浩生
網状言論F RePure
佐藤友哉「『世界』の終わり」について
の文章は1/5の日記にあります。
孤独な夢想者の遊歩予定
→→→ブックマークとお気に入りを新規更新をお願いします…
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事実、人は、どんなことを書いてみてもよいのだし、それを禁じられたためしはない。
カンタン系出張所
→ブックスカンタン系
●2007/07/23(Mon)その3
これより約1年前の宿題の回収。
韓リフ先生の週刊ビジスタへの感想に対して文章を書く形をとるかんじで。
「かっこよさ」とは、センスを根拠なく差異化することによって仮構されたヒエラルキーとしてしかありえない
●2007/07/23(Mon)その2
よく考えると、こういう、好い加減なサイトにも利用できることを考えると、解説ページを読みながら、はてなスターを利用できるようにしたほうが良いんだろうなあ。面倒くさくてやるきはでないけれど。
そんなにコミュニケーションをとりたいわけではないし、別にいいなあ。
●2007/07/23(Mon)
寒気がしてきた。体調が悪いのである。冷房のかけすぎかもしれん。
わりと古参のユーザが離れもしているサービス、はてなスターであるが、これははてなメッセージと組み合わせて、どこでもtwitterとかtumblrにするということだろう。アンカテが書いているみたいにEメールを駆逐しないと思う。
# 駆逐される対象が「Eメール」というより「メアド直リンク」だとしても
# きっとひとびとは、はてなのサービスを利用することがコスト高と
# 思うだろう
ポイントは、(1)このあとに登場する「はてなワールド」がどれだけユーザに依存させる仕様であるか否か、(2)どこかの企業が、はてなスター+はてなメッセージと同様のサービスを開始するまでに勝敗が決した規模のユーザを囲い込めるか、になるのだろう。(2)を解決するには、おそらく(1)にかかっている。
どういう機能だろうと、はてなワールドが依存度が高いサービスでないと、はてなという企業に残された時間は少なくなる。はてなにとってWeb2.0の普及は、はてな以外にも「あちら側」のプレイヤーが増えたということなのである。
まあ、Web2.0とは「MSが必死に食い止めてきたASPの普及」であり、twitterなどは「メッセンジャーをASPでやったらこうなった」なのである。だから、一番大きいパイは携帯ユーザを取り込むメッセンジャーサービスが持っていく。MSのメッセも携帯対応になっているけれど、なんかまだ付け込む隙はありそうな気もする。
で、PCユースでは誰が一番大きいパイを持っていくのだろうか。まだ勝敗は決していないけど、はてなダイアリーと連携が必要そうな面持ちで、ライバル達にこっそりとキラーアプリを登場させたはてなはどうなるかなあ。
●2007/07/22(Sun)その2
はてなアンテナが更新を拾ってくれない。とはいえ、まあ、はてなアンテナを利用しているユーザも少なくなったことであるし、気にすることではないのかもしれない。
西荻窪のハートランドが入居していた場所に、新しい書店が開店していた。トラベラー向けだった。
●2007/07/22(Sun)その1
たらたらと読書をしている。書いてみて気づくが、読書は「たらたら」と行なえるものなのだ。以下、擬音語「たらたら」について一説ぶろうと思ったが、止めておく。詳細は略すが、余りに無益な行為だろう。
話は変わるが、最近になってDr.Pepperを愛飲している。Dr.Pepperを飲んだ家族内で揉め事が起こる、と自虐的なCMを放送してイギリスのCM品評会から高く評価されたことでも有名なDr.Pepperである。
所謂「マズい」の代名詞、コカ・コーラボトリングスを代表するケミカル飲料、Dr.Pepper。何ゆえ「ドクトル」であり、また成分の何が「Pepper」なのか、未だ不明であることが私の胸を騒がせる。それは「マキ・プロ」が、
何ゆえ「マキ」の「プロ」であるのか不明確であることと同様に。
ちなみに、私にとって命名由来が不明であるが故に心騒がされる三大マキは、「マキ・プロ」と「カルメン・マキ」、「銀座じゅわいよ・くちゅーるマキ」である。これと比ぶれば、日本代表の巻など謎がないに等しい。彼なんぞ単なるイケメン・ラグビー選手である。
●2007/07/21(Sat)
最近風呂場で本を読んでいる。これといって読む本の基準は無い。強いて言えば安値で購入できたものということに共通点が見出せる程度である。これまで読んだものは、岩田規久男『日本経済を学ぶ』、春日武彦『幸福論』、阿部昭の短篇小説、ベーカーのシャトル外交録、太宰治といったところ。
ちなみに、今日読んでいたのは岩波文庫『浄土三部経』(下巻)だ。この本は「浄土」、つまり「あの世」に関する三つの著名な仏教書を収めたアンソロジーである。要は講話である。
大王よ、ヴェーダ聖典に説かれていることを聞くのに、はるか昔 よりこのかた、さまざまな悪王があり、帝位に早くつくためにその父を殺した者一万八千人に上っている。
一万八千というのが仏教の世界における「一億万円」に比する「たくさん」の比喩表現であるのはわかるが、実数だとしたら余りに殺しすぎである。両手の指以上の数で「たくさん」となる社会もあるし、日本はせいぜい「八百万」であるが、インドは更に大きな桁数でなければ「たくさん」を感じられない社会だろう。と書いてみたけれど、よう知らん。
●2005/12/5(Mon)
カンタン系 2.0 です。CSS全盛のこの世の中で、堂々とfontタグを使いますよ。四の五は言わせませんよ。奥さん、みのもんたが紅白の司会を務めるじだいです。何をいったっていいんですよ。ていうか、いたずらに文字を大きく書いているスタイルだったのに、高橋メソッドの登場で余り時代から外れていない表現になっているのがオドロキ。貧乏人は画像編集ソフトすら満足に扱えないから、文字を大きくするしかなかったというだけなのにね!
さて、
惑星開発委員会の同人誌「Planets」に、わたしの名前がクレジットされています。しかも「企画者」のなかに。これはいったいどういうことでしょう。
考えられることは、いくつかあります。
以下に、想定されるケースと対応案を挙げてみました。
といったところですが、実際のところ何を企画したのか、といったことを話すことができたら、それはそれで一驚かもしれません。明かされざる真実というのは大抵興味を誘うものです。「24」だって、そんなものです。ジャック・バウアーが出演しているという知識しかないですが、「24」だって、そんなものです。そんなものなんです。それと同じです。そんな引き。
●2003/12/31(Wed)
[031231] ●2003/12/23(Tue)
[031223] ●2003/12/21(Sun)
[031221] ●2003/12/20(Sat)--->その5
[031220pt5]
浅羽通明『澁澤龍彦の時代』を読んでいるんだけれど、とても格好良い。この本は学生時代にも読んだことがあって、それは古書店での立ち読みだったんだけれど、今回改めて買った。誰かこの本の要約と動物化の議論をうまく合わせて質問を作るんだ。それを浅羽通明に質問して本にしなさい。そうすれば現代人とはいかなる生態をしているか、という「ケータイを持ったサル」ないし「バカの壁」的な本がしっかりと出来上がって売れることは間違いないと思う。あとは売り込み次第だ。
●2003/12/20(Sat)--->その4
[031220pt4]
ピーナッツがうまい。延々とビールとピーナッツ。これだけで人生を過ごしていたら、とても不健康だ。健康診断の結果は良好なんだけれど、あの病院はヤブだからなあ。
●2003/12/20(Sat)--->その3
[031220pt3]
ところで、ジブリの鈴木さんに関する僕のイメージは、いしいひさいちさんがマンガにしたような銀行系の出向者に対するガードの強さだ。あのマンガは「COMIC BOX」に掲載されていたのかなあ。うろ覚え。
歯医者で銀歯を被せたので、ようやく肩こりが楽になりそうだ。
●2003/12/20(Sat)--->その2
[031220pt2] ●2003/12/20(Sat)
[031220] ●2003/12/19(Fri)
[031219] ●2003/12/17(Thu)--->その2
[031217pt2] ●2003/12/17(Thu)--->その1
[031217pt1]
G=エスピン=アンデルセン編『転換期の福祉国家―グローバル経済下の適応戦略』は早稲田出版部から出ていることが不安。再販されなさそうな気がしてしまう。折を見て買うべきか。アンデルセンの論文も二本ある。
●2003/12/17(Wed)--->その2 ●2003/12/17(Wed)
まあ僕がバカなのはいまにはじまったことじゃないんだけれど。
参考にした本は、ラブジョイ『観念の歴史』と菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』。ラブジョイの本は柄谷行人とか宮台真司といったひとたちが若い頃に読んでいたことで有名らしいんだけれど、現在の彼らの読者たちは却って読まない本。『ジンメル・つながりの哲学』は、ルーマンの貨幣論に強く影響を与えた部分を紹介されてるんだけれど、とてもわかりやすい。でも、最後にはやっぱあの分厚い『貨幣の哲学』を読まなくちゃいけないのかなあ。
●2003/12/16(Tue)
それにしても、実在論批判の著作と思っていたら「批判的実在論」の本だったとは…。
●2003/12/15(Mon)--->その2
なお、わたくしといたしましては、「この広くて狭い世の中だから擦れ違っているかもしれないし、擦れ違っていないのかもしれないけれど、擦れ違っていたらその偶然が何とも素晴らしいかもしれない。そんな顔を見たことがないけれども、男性であることは間違いないと確信を持って言うことのできるyomoyomoさんが翻訳したレベッカ=ブラッドの『ウェブログ・ハンドブック』は著者が女性であることもあって、女性が普段用いるような口語体が用いられている」ということを書こうとして失敗しているのです。その過ちを誹ることはもっともだと思います。
なお、yomoyomoさんからの指摘は主として口語体も用いているというスタンスからのもので、文語体も含めて使い分けをなさっていることをわたくしの文章からは覆い隠されているという指摘です。『ウェブログ・ハンドブック』の付録にあたる部分では極めて堅い文語体が用いられていることなどを確かに覆い隠すような文章でした。日記中の文章を書評と捉えれば、たしかにフェアーなものではなかったかもしれません。
●2003/12/15(Mon)
【問題となった日記】
2003/12/10(Wed)
●2003/12/14(Sun)---->そのにー
ブックオフに本を売る。200冊近くある書籍を売ろうとして、半分近く売れ残る。手許に置かれたのは9000円。まあまあ。上等と思いたまえ。何はなくとも払いたまえとオヴィディウスも宣ったではないの。
●2003/12/14(Sun)
「サブカル」という言葉が現在インターネットで意味していることについて熱く語る。その言葉の変遷というか歴史を延々と語り続けに続けて、疲れた。
nobodyknows+「ススミダス」をようやく買えた。「みんなのゴルフ」のCMで使われている曲か。いやあ、ラジオでよく聴いている曲を買おうとするとアーティスト名を調べるのが意外と面倒。でも、まあ、好きなら調べないと。
谷川渥『美学の逆説』はおすすめです。ハードカバー版にはなかったリオタールによる「崇高」論に対する分析や、モダニズム評論で有名なグリーンバーグ(現代ポップアートの評価を多く決定づけた人物)に対する批評なども収められてとてもお得。っていうか、僕はハードを持っているのに買い直し…しなくちゃなあ。グリーンバーグって邦訳されていないんで、学生時代から興味を持っている僕は洋書を読むべきなのかと頭の痛いことをたまに感じる。英語できないんだよなあ、僕は。
●2003/12/13(Sat)--->その4
ともあれ、このころはまだ、文壇というものが存在していたのだなあとしみじみ感じる。あればいいってものじゃないんだろうけど。
●2003/12/13(Sat)--->その3
僕自身は広末涼子に思い入れがないので、感慨がない。
つまるところ、僕にとっての広末涼子とはトヤマさんにして、かくも愛に満ちた言葉を呟かせる人物なのだった。
●2003/12/13(Sat)--->その3 ●2003/12/13(Sat)--->その2 ●2003/12/13(Sat)
古書店で朔太郎の『猫町』を買って帰る。友人の卒論題材だったことを思い返して読み直したくなった。図書館でムロージェク『所長』を借りる。
●2003/12/12(Fri)
ホークスの『人食い』を買ったので、これを読もうと思う。
そういえば大塚英志が「早稲田文学」に文学フリマで配布した文章を改稿して掲載していた。舞城王太郎批判なのだけれど、彼は舞城王太郎を押さえ込めずにいる。批評家というのは偉い人が言うには、作家の時代を到来させないことにある。とするならば、間違いなく大塚英志は失敗している。が、そんな成功や失敗はどうだって良い。
ただし、敢えて大塚英志が失敗をしているかというと、舞城王太郎がフックとして用意したものに彼が引っかかっているからだ。舞城王太郎が仕掛けておいたフックというのは、先行作家への仄めかしなどだ。気の毒な読み手は仄めかしばかりに気を取られて、仄めかしから伺える先行作家(ないしいくつかの固有名詞)との関係性から肝心要の舞城王太郎の作品を読まなくたって語れるようになってしまう。こここそが舞城王太郎の用意した罠であり、罠に掛かった者は舞城王太郎について語ることを止めることはできないし、舞城王太郎自身そのことに気づいているだろう。
●2003/12/11(Thu)
文学フリマが終わって好い加減時間が経過したはずなんだけれど、あのときに文章を書くために「現代思想大好きさんモード」に入ったために、現代思想的な文章じゃないと入り込めなくなるという後遺症があって、それがまだぬけない。『心の仕組み』をうまく読み解けないのはそれが原因。僕の頭が無駄に複雑に考えようとしてるんだと思う。なんだか非生産的な脳になった。そんなこんなと最近の寒さによって読書量は大幅に減少。だいたい普段の半分くらい。そもそも本自体買っていない。珍しく。
●2003/12/10(Wed)--->
死ぬほど眠いのと自分の将来に対する漠たる不安を唐突に感じたので、先輩から借りた「LOOPHOLE」を聴いて寝る。
●2003/12/09(Tue)
しかし、とはいえ、彼が日本のウェブログの将来像をケータイ的なモブログに標準を定めているのは正直腑に落ちなかった。いや、もっと踏み込んで言うと「出版からコミュニケーション」という移行を促そうとする彼の言葉が腑に落ちなかった。僕はウェブにあるものっていうのは、コミュニケーションとしての役割だけではなく、デジタル化されたデータが、書かれたものとして、出版物として機能してしまうところに特徴があるんじゃないかって思う。だから多くの人たちが複製される/することに対して過敏になっている。それを見逃すか覆いを隠してしまうかしてしまう彼の発言にはちょっと納得がいかない。
と考えているんだけれど、取りあえずは『ウェブログ・ハンドブック』でも読もう。読もう読もう。
それはそうと、小泉は日本の国際貢献を行うことを憲法九条を持ち出してまで説明したのかあ。タカ派的というか青嵐会的なものに僕の教授は苦しめられたので、あんまり小泉は好きじゃない。のだけれど、彼の今回の会見というのは来年の参議院選に影を落とすような気がする。まあそれは加藤典洋が言うようなアメリカの影なのかもしれないけど。
●2003/12/08(Mon)
でも世の面倒なことは、面白いと言うことを伝えようとする言葉がつまらくなることが少なくないことで、面白そうなものが却って面白みを減らしてしまうことはよくあるということ。
そしてこれはとても面白いことだと思うのだけれど、面白さを伝えようとする言葉に使っているうちに自らが用いている言葉に囚われたのか、言葉の地口を繋ぐような連想で面白くもない小説を面白いと思いこもうとしているうちに面白く感じてしまう経緯を記しているように出会うことがある。
けれども、だからって、そういう経緯なんて知ったことじゃないと言う顔をした小説家がいることも確かで、ちょっとばかり文芸誌を読んでいる人間にとってはそれは金井美恵子という女性作家の顔になる。名前は覚えていないけれども彼女の作品をそれはそれはご大層に説明した批評家たちが、間を置かずして金井美恵子本人にそういうことなんですかね、といったような言葉で切り返され立つ瀬が無くなってしまう光景はある時期見かけたもの。ここ数年良くも悪くもそんな金井美恵子の態度など知ったことかと文章を書いたのは小泉義之ぐらい。そんな度胸の持ち主は良くも悪くも今は小泉義之ぐらいしかいない。
なんてことを向島さんの日記を読んでいると考えたくなってしまうのだった。金井美恵子の対談者に選ばれるのは、ここまで書いたような金井美恵子読者初心者クラス的前提を軽く乗り越えている社長しかいない。そんな気はする。そして僕も用事さえなければ(あるんだけれど)、きっと講演会を覗きに見に行っている。社長のトークは僕はとても面白くて、大好きだ。これが斉藤美奈子だったら、話すことも話されることも大筋先が読めるし、読めた時点で好奇心もなくなるけれど、社長の話なら何度聞いても楽しめる。
さて、話は大きく変わるけれども、今月の「大航海」(新書館)は「ファンタジー」特集。といってもガチガチの文章による「ファンタジー」で、書き手は稲葉振一郎さんや北田暁大さんなど。「ファンタジー」というよりは「虚構世界」に関する論文というべきものが多く、間違いなく転叫院さんが喜びそうな内容となっている。そして恐らく北田暁大さんの論文を転叫院さんは「虚構世界における実存主義」を論じたものと愉しみながら読むと思われるのだけれど、そんな予想できる展開ではなく「ファンタジー」=「虚構世界」的な議論が起こっている枠組みについて触れた稲葉振一郎さんの文章を愉しんでいたら、と想像した方が面白い。というか、僕は最近、物質性の高い世界と距離を置いた世界について考えているので、稲葉振一郎さんの文章が面白かったのだった。
みなさん、そういえば「大航海」は「ダンスマガジン増刊」であることを知っていました? それに出版元の新書館らしく初期の「大航海」の表紙を西炯子が担当していたことをご存じですか? ご記憶してらっしゃいますか?
●2003/12/07(Sun)--->その5 ●2003/12/07(Sun)--->その4
これはやはり、「ネットよりハム無線」という神の暗示なのだろうか。
●2003/12/07(Sun)--->その3
今日は慌てて免許の更新に出かけた。眠りたくなるのを必死にこらえて話を聞いていると、千葉県のシートベルト非装着率の高さやら、千葉県の交通法細則に
なんて文章が何気なく書かれているのに気づいたりと、房総のアンダーグラウンドに触れ、良い気分だ。帰り道POPがすごいことで有名な書店によって書店員が何を推薦しているのか確認する。行ったら数年前よりコミックのコーナーが充実して、ボーイズラブのコーナーが拡大されていた。良いのだろうか。渋谷のBook1stも男性向けアダルト出版物コーナーが壊滅状態になったかわりに、ボーイズラブのコーナーが書泉グランデの次ぐらいに充実してるんじゃないかって言う拡大ぶりだったしなあ。これが近年の出版界の実情なのかもしんない。
地元でベネット=サーフ『ランダム・ハウス物語』上下巻そろいで100円で売っているのを見て泣きそうになる。もちろん買い納めて、ジェイムス=ジョイスとその妻の掛け合いを読んだりしている。で、部屋片づけは終わらない。
●2003/12/07(Sun)--->その2
今年肯定されたのは、藤田省三、吉本隆明、金井美恵子、サトウサンペイ、秋山駿、リオタール、坂田靖子『デル・カント・バジェット』、荻原魚雷、エンツェンスベルガー、佐藤友哉『水没ピアノ』、サルトル、橘香いくの、山形浩生『たかがバロウズ』、高田渡、羽海野チカ、ニーチェ、海野つなみ、嵐山光三郎、「24アワー・パーティー・ピープル」、ニクラス=ルーマン、見田宗介、中村光夫、坂口安吾、ゲーテ、ベンヤミン、植草甚一、正宗白鳥、丸山圭三郎『ソシュールの思想』、チェルフィッチュ、チャペック、ヴォネガット、アガンベン、AC/DC、三浦実子、キャロル=キング『つづれおり』、金田一蓮十郎、小林秀雄、中原アヤ『ラブコン』、ひかわきょうこ。
例年になく真面目な読書をしていた気がする。下手をすると日経新聞の文化欄だ、これじゃ。それから読み終えている量がやっぱり減っている。来年はもうちょっと好い加減に読書をしたい。『ドカベン』全巻読破とか。ていうか『ドカベン』がメジャーリーグ編に移行しつつあるという噂は本当なんだろうか。ショッキング。
●2003/12/07(Sun)--->その1
まず年頭に予測したようにブロンディーが復活した。でもパワーステーションサウンドは復権しなかったか。まあ、いいや。
さて80年代的な作家がただいま批判の矢面に立たされる時代が来た。高橋源一郎が現代詩手帖で特集されたことで過去の作品を集め出す人も増えている。矢作俊彦も批判の矢面に立たされる。矢作俊彦が原作を担当した『気分はもう戦争』が「一部」で人気があったと記述される時代がやってきた。吉本隆明も高橋源一郎も安原顕も発表当時に評価をしたはずで、のちに宮台真司が80年代(前半)的なものを代表させるべく引用した(といってもその箇所はヴォネガットの有名なフレーズだ)。そういう作品が評価されなくなるべく言葉が紡がれるというのは偏に時代が変わりつつあるんだなと思う。とはいえ退屈だけれど。
矢作俊彦について文章を書いてしまうというのは極めて久しぶりだ。浪人時代を思い出す。矢作俊彦をモデルにしたと思しき内田美奈子の『DAY IN,DAY OUT』でも読み直そう。
●2003/12/06(Sat)--->その3 ●2003/12/06(Sat)--->その2
で、ここまで書いて説明してみると、とても生産的な議論というか真っ当な話に聞こえるんだけれど、なんかおかしい。上記説明では他人に「影響を及ぼしてしまう」不安があることが示唆されている。
でも、僕はこの話がとてつもなく退屈。
僕は「儀礼的無関心」という言葉を作った社会学者ゴフマンの著作をちらっとしか読んだことがない。
●2003/12/06(Sat)
さあ部屋片づけだ。
●2003/12/05(Fri)--->その2 ●2003/12/05(Fri) ●2003/12/04(Thu)--->その2
ん。
じゃなくて。"boom boom"というフレーズは古くはブルースのフレーズに登場するぐらいなんで、「萌え」という言葉と近いと言われても、困るんじゃないかなと思った。ジョン=リー=フッカーの「Boom Boom and Other Classics」はどうなる、という。どうですか?(不特定多数に質問してみます)
●2003/12/04(Thu)
ビッグイシュー日本版第三号は、都内で初めての発売されたビッグイシューとなっているけど、先週ぐらいからプレ販売的に第二号がずっと販売されていた。それで今日までずーっと新宿駅ルミネ側(坂を下っていく方)で販売してるオジさんから最新号を買った。トラヴィスやビョークの告白が読めて面白い。それから、中国の玩具産業は実は多国籍企業によって成り立ってるんだけど、残業時間とその未払いがしゃれになってないことを報じる記事や、ホームレスが「住所不定」であるために医療を受けられなかったイタリアでのケースに関する記事など日本の外の、ちょっと考えても良さそうなことが書いてある。
ABCで、『2004本格ミステリ・ベスト10』を立ち読み。蔓葉信博さんのJDCシリーズに関する文章を読む。蔓葉さんは文学フリマにいらしゃった際に初めてお顔を拝見したんだけれど、とても穏やかそうな人だった。そんな僕の印象そのままの穏やかな文章を読んで気持ちを良くしてから書店を後にする。
そうそう。芝浦工業大学カルチュラル・スタディーズ研究会がビッグイシュー日本版を年間購読することにしたようだった。年間購読者名に名前があった。えらい、という言い方は語弊があると思うんだけど、やることやってるな、と思った。がんがれ、文化左翼。 ●2003/12/03(Wed) ●2003/12/02(Tue)
なんだか頭をこれまで以上に使わないといけないと思う。
「InterCommunication」について幾つか書きたいことがあったけれど、ややスタミナが保たない気がする。取りあえず随時思いつくまま。稲葉振一郎さんの連載と斉藤環さんの連載についてすこし触れたい気がする。
と書いてから気づいたけれど、稲葉振一郎さんの「地図と磁石」第二部が始まっているのに気づいた。第一部は東洋経済から出版されるようなので現在は読めないみたい。あの第一部は大変興味深くて、ポストモダンの思想家に対して、これまで日本では殆ど見られなかったアプローチから返礼(?)がなされていると僕は思っていて、それをこの前queequegさんを前に熱弁した(ところでqueequegさん、コミュニティに関する返答はちょっと先に延ばさせてください)。しかしHotWiredのメルマガを読まなかったら第二部開始に気づかなかったろうなあ。そういやメルマガていやあ東浩紀さんが有料のメルマガを発行するよう。
(上記記述より若干分経過)
追記:鰹のタタキを食べながらビールを呑んでると、生き返る。まだ死んでいないけれど。
●2003/12/01(Mon)--->その2
サイト名の由来について、大学時代の友人に推測および論いされたときのパターンを一瞬のうちに提出され尽くされると非常に困る。困るというか。まあ、僕が手旗信号を送っていた人まではわかるまい。わかってたまるか(一昔前のロッカー風に)。
●2003/12/01(Mon)
部屋が片づかない。ただ気は少し落ち着く。世の中とくにこともなく終わった一日。哀しい出来事は少なければ少ない方が良い。死なないで済むなら一人でも死ななければいい。
ようやく今日になって「InterCommunication」が手に入る。
そういう雑念が入ってしまうから、北田さんの文章の真意を僕は掴みかねるのだった。うーん。
●2003/11/30(Sun)--->その4
さらにさらに部屋片づけを続けていると、スミヤキストQとか永井荷風を見つけて、あ、良いなあ、あとで読もうかなあ、なんて思っていたら見失った。どこへどこへDOKO E。
●2003/11/30(Sun)--->その3
お気づきかもしれませんが、僕はそろそろ隠遁期に差し掛かりつつあります。冬は寒くて辛いです。
●2003/11/30(Sun)--->その2
さいきんの文壇および近辺の論戦は、昔ながらの読ませてくれる内容からパワハラに近付いているので、本当つまらない。ケンケンガクガクな匿名批評も消えたので、なんだか息が詰まる。
●2003/11/30(Sun)
あと、このサイトの由来がまたすこしばれてしまったよう。いやはや。僕はこういう小説をあんまし読まないけれど、こういう本が好きな元SF研究会のひとと話があったので、そういう趣味を持っている人への感謝を籠めての極めてわかりづらい手旗信号としてこんなサイト名にしたのだった。これでこのことに気づいた人は2人ぐらい。
●2003/11/29(Sat)--->その4 ●2003/11/29(Sat)--->その3 ●2003/11/29(Sat)--->その2
それにしても、僕はさいきんは自信はないし、果たさなくてはいけないことを果たさないばかりだ。そういう「果たさない」こと自体に快楽を見いだしているのでは、とか言われると困るというか大変傷ついてしまうぐらいに、僕はまだ自分に自信が無いみたいだ。じっくり持続していかないと。頑張っていかないと。
●2003/11/29(Sat)
Winnyを利用して逮捕された男の子が「この世界で認められたかったんです」と告白をしたというのは本当なんだろうか。どの世界だ、と言いたくなるけれども、何とも不思議なうわさ。
風邪気味なのです。
●2003/11/28(Fri)
これは悲惨な歴史みたいなものなので、10代の方は落ち着いて考えて頂きたいのだけれど、あなたたちより先行して日本で生を送り、やや文化に詳しいと思っているひとたちは屈折した感情を抱いている。その屈折した感情というのは、自分たちが受容した文化が下位文化であり、実は高位の文化の模造品か劣化品であるという考えに囚われていることが原因だ。模造の模造、劣化した製品のコピーを受容していると思っているから、とある作品の特徴を先行して表現している作品が存在していると、自分たちが受容している文化が模造品である証明と思えて反駁したくなる。しかし本当の問題は、何故模造品であると考えるようになったのか、また模造品の方が性能がよいことだってあるのに何故に模造品と証明されることに恐怖と反駁心を駆り立てられるのか、ということで、そのことを考えた方が生産的だと僕は思う。といったことを書かなくてはならない立場に僕が置かれる奇妙さと言ったら。
明日は『思考の臨界』を読もう。
●2003/11/27(Thu)--->その2 ●2003/11/27(Thu)
ビッグイシュー日本版へのリンクを張って、だいたい20人ぐらいがサイトを見に行ってくれたと思うんだけど、こういう運動があるってことだけでも知ってもらいたいんだよなあ。失業問題ってのは対岸の火事じゃないし、それへの手助けとして有効かもしれないものが運動として始まっていることをちゃんと見て欲しいんだよなあ。ちなみにJR新宿駅ルミネ側で朝10時ぐらいに売っているひとたちを捕まえるのが一番簡単みたい。それにしたって、取り置き店が東京に無いって言うのはなー。
あと、なんとなく気づいてはいるんだけど、実はカルスタとかやっている文化左翼と呼ばれるひとたちは、こういう運動に興味がないんではなんだろうか。失業していても、それを対岸の火事のように受け止めているような、なんというか。もう、左翼が作り上げた空想の世界で戯れているというか。買わなくたって、そういうことを気にしていることを装うひとたちですらなくなってしまったんだろうか。HotWiredの江坂さんしか、メディア関係者からの発言めいたものを読んでいない気もするなあ。ニュースステーションは東京での販売を密着取材したみたいだけれど、そういうことを書いている文章をWebで余り見ないのは何でなんだろう。
っていうか、僕がこんな文章を書いていること自体が奇妙な気もするんだよなあ。いつから大人というか偉い人たちはこういう運動があるということを伝えなくなってきたんだろう(もしかしたら僕が見逃しているだけで「世界」や「情況」や「インパクション」では盛り上がっている話題なのか?)。うーん。僕より年下の、そうだなあ、いま15歳ぐらいのひとたちが将来の就職先(?)としてNPOとかNGOが選ばれる可能性だって、十二分にあると思われる時代だと考えてるんだけどなあ。
●2003/11/26(Wed)
ビッグイシューという雑誌はホームレスのひとしか販売できない雑誌だ。この雑誌の販売を本人の社会復帰への糸口にする。そんな目的の雑誌。インターネットで調べたら、このページがとても詳しかった。
そのストーンローゼズが解散するかしないか、と洋楽ファンが神経をとがらせていたころ、バンドのボーカルでスポークスマンだったイアン=ブラウンは他の音楽雑誌に先置いてビッグイシューからのインタビューに答えていたはずだ(ちょっと記憶が薄れ掛かっている)。それでしようがなく日本の音楽雑誌はビッグイシューの内容を孫引きしていた。そんな注目をされたはずだ。
僕が立ち読みをしていた頃の音楽雑誌にはイギスリは階級格差が大きく、サッカー選手かロックスターしか人生を打開する方法が無いように思えてしまう。そんなことをミュージシャンがよく答えていた。彼らの言葉が本当なのかどうかはよくわからないけど、じっさい彼ら(ヴァーヴとか)は曲の収益をビッグイシューに寄付したりしている。インタビューなどにもよく出てくる(日本版創刊号はR.E.M.だと知って、手に入れ損なった僕は悔しくてたまらない。もっともR.E.M.はイギリス人じゃないけど)。
いま発売されている第2号では、中島らもへのインタビューが載っているんだけど、彼の私生活が垣間見える文章で、こう彼の素顔に踏み込んだ文章を僕は読んだことがなかったので驚いた。文筆業の苦しさを漏らしている中島らもなんて初めて読んだ気がする。とても面白い。詳しくは直に買って読むべきだと思うので、これ以上は書かないけれど。
内容もページ数が少ない割には面白いので、年間購読(1万5千円)をしたいけれど、僕は恥ずかしながらお金があんまり無いので諦めた。やっぱり持つべき物は持つべきなんだなあ。
願わくば、ビッグイシュー日本版がしっかりと根付きますように。単なる左翼のファッションにならないように(やれサイードだ、やれネグリだ、とか左翼っぽく装うことなんて大学に通えば誰だってできるようになる。でも、それだけじゃあ意味がない)。本当に機能するものとなるように。正直な話、今のままで大阪だけで売れてるだけじゃあ限界があって、恐らく東京で売れなくちゃあいけないんだろう(でも東京は売りづらいと思う)。
それから思い浮かぶところでは、大学の図書館が、本当はこういう雑誌の年間購読を取り付けなくちゃあいけないはずだ。他の雑誌と比べたら格安なんだし、雑誌に名前も載るんだし、社会貢献になる。そういった言葉と雑誌自体を広めていけば、購読者が増えていく雑誌じゃないかと思う。
E.L.O.の「Out of the Blue」を先輩から借りて聴いている。思いもよらず完成度が高いので嬉しい。シンセ音が少ないだけでこれだけ「ザナドゥ」と印象が異なるとは。
●2003/11/25(Tue)--->その2
安岡章太郎『走れトマホーク』の「聊斎志異」を読んでいると、自分を含めた同世代に「まあ、なんつうか、ヴォネガットもシャバじゃあウダツがあがらない人間ばっかりだって言ってたから、少しは気を落ち着かせようか」みたいなことを言ってしまえそう。すごいなー、安岡章太郎的落第生力は。
退屈な時間を紛らわすために、「この世にはリフレ派(大ざっぱには景気回復すりゃ世の中丸く収まる)と構造改革(構造改革すりゃ世の中丸く収まる)しかいない」というゲームを頭の中で進めてみた。誰がリフレ派で誰が構造改革派なのか。みたいなことをばーっと考えていると、普段気づかないことに気づくのでとても面白い。役には立たないけど。
●2003/11/25(Tue)
NHK出版「シリーズ・哲学のエッセンス」の『アウグスティヌス <私>のはじまり』を購入。かつて卒論を作成した際にはアウグスティヌスを読みたいと思っていたけれど間に合わなかった。この本は卒論後の関心事を助けてくれるものかなあ。フロイトの「不気味なもの」に関する議論がでてきたのは、正直驚く。懐かしいといやあ懐かしいのかもしれないのだけれど。
今日の朝日新聞夕刊は最近に珍しく面白かった。藤原帰一が初めて面白いことを書いたような気がする。フェミニズムに対して批判的な父権的な意見ていうのがあるけれど、なし崩し的に共稼ぎになっていく現在で、保育の拡充をしないでどうするつもりなの、とか、男性が父権的な家庭を想像したって女性は幸せな結婚を求めるんだろうから無理も良いところだよ、とか。フェミニズムはまあ、僕は知識がないので深く考えることを避けるけど、でもまあ、やっぱり保育の拡充は結婚をした方たちを見ていると本当にしていかないいけないと思う。もし、そういう訴えを打ち消すとしたら、父権的なことを主張することはやっぱり福祉に金を払わないことの隠れ蓑として機能しているってことだと思う。ぐらいかなあ、ぱっと思いついて。
●2003/11/24(Mon)--->その2
僕の周りには学生時代から確実にひとりはハム無線の有益性を述べるひとがいるのですが、これは僕の人生にどのような影を落としているのだろう。
なんていう悩みはどうってことがなく、部屋片づけをしていたら要らない本が出てきたので困った。僕の書棚に誰か来たら、その場で何冊か本を押しつけたいなあ。
それから、再読をしたり、脇道にそれる読書をしていたら、案の定積ん読になる本が出てきて精神的に追いつめられてきた。小田中直樹さんの『ライブ・経済学の歴史 <経済学の見取り図>をつくろう』を読んでいないことに関しては、胸ふたがれるような、何というか。申し訳ないかんじ。僕のサイトを見に来ている人は、わりと経済学に関心が無いと思うのだけれど、それは僕自身はアカンのではないかと若干不安になる。それはどうしてかというと、かつてそういうことが興味も関心も無かったことが起因して何か失敗しているような錯覚めいたものを感じているからかもしれない。
それこそ『エコノミスト・ミシュラン』は、僕もあんまり良いこと書いていないからかもしれないけど、クリック数が少ない。
ちなみに小田中直樹さんの『ライブ・経済学の歴史』の方は、おっそろしくスッキリと書かれていて、その淀みなさに驚いてしまって、却って読めずにいる。けど、これはもしかしたら10代の方が読むとよろしいのかもしれない。僕は実は今日、中村光夫というひとの本を読み直したのだけれど、それに似た年長者の優しさみたいなもの小田中直樹さんの本にも僕は感じる。10代の頃の僕は、こういう文章に触れると嬉しくなって読み進めていた。今だと、ちょっと疲れ気味だとすぐ読むことを止めてしまう。それはまあ、僕の問題なんだけど。それから、元来は経済学に関心を持ちたくないと思っている気性が原因しているのかもしれない。
●2003/11/24(Mon)
後輩たちのCDを聴く。意外と良いなあ。
いま、ふっと気づいたのだけれど、原田宗典というひとはかつて五木寛之がいたポジションに似たところにいるのだなあ。いまはそこに居づらさを感じているし、どこまでいられるのかわからないような顔をしていそうだけれども。
●2003/11/23(Sun)--->その4
『宇宙家族カールビンソン』にでてたサンドウォーマーが家にいて欲しい。彼みたいな生き物がいたら部屋が暖かいから。あと映画好きのジョンも。どちらかっていうと映画館館主のジョンの友人のジョンかな。蓮実重彦が大好きで、彼の文章も好きな人は映画館館主のジョン(きっと名字はカーペンター)の方が好きなんだと思うけど。
●2003/11/23(Sun)--->その3 ●2003/11/23(Sun)--->その2
と書いてみて気づいたけれど、幼なじみも僕に負けず劣らずかなりの雑食だなあ。
寒くて指に力が入らない。それから柄谷行人『探求I』が見つからない。たしか文庫版の解説は野家啓一が担当していたと思うんだけれど。そういう記憶もあるのに見つからない。もしかしたら買い込んだと記憶違いをしているんだろうか。だとしたら重傷だ。
えーと明日は市の中央図書館に本を返却しなくちゃいけないのか。そうか。っていうか、明日は月曜日だけれど開館しているはずだよなあ。帰り道ブックオフに寄ろう。いやまて。今日の時点で寄ったんだよなあ。
そうそう加藤典洋の『敗戦後論』を改めて流し読みをしたんだけれど、文学の言葉を用いなくてはいけないというか、用い続けることの不毛さみたいのを感じてしまった。あの本で問題として提起されたことは「内部と外部の区別とは今の時代ではどうなっているのか」と「内部と外部はどちらが大事なのか」と「アメリカに占領されたことをどう思うのか」と「どういう言葉遣いだったらコミュニティが異なる人たちにも言葉が通じるのか」という4点にまとめられそうな気がする。どの論点に関しても、問題として取り上げたことは正しいというか良いことだと思うんだけど、余り説得力のある言葉と論旨になっていないと思う。
加藤典洋は文学の言葉が通じると思ったら、そうでもなかったので言葉遣いについて問題提起をしたと思うのだけれど、そのこと自体が文学が他の分野と比べて思想の伝播において優位性を持っていたという前提が崩れている証左になっていると思う。まあ、このことは東浩紀さんが『郵便的不安たち』で書いていたことではあるけれど。
あと加藤典洋の村上春樹の読解は雑で、いつになったら自分の問題圏に力ずくで引きつけずに村上春樹を読むことができるようになるんだろうかと僕は不安というか得も言われない気分になる。
●2003/11/23(Sun)
そしたら、それからちょっとして「ファウスト」に連載を持っている東浩紀さんがそんなに気にすることなくて、年齢詐称して投稿してしまえば良いと書いた。
けど、雑誌「ファウスト」の公式な投稿規定改変じゃなかった。
それから、また少し経って東浩紀さんが何かの講演会で「ファウスト」の編集長の太田さんに投稿規定に漏れるひとたちも投稿して良いかと尋ねて、了承を得たという話を聞いた。けれど、それはあくまでも伝聞でしかない。講談社の「ファウスト」のコーナーには規定改変のことは見受けられない。公式なコメントがごく一部のひとしか集まれない場所できっちり述べられる。そして活字化されない。
といった「かくかくしかじか」なことを僕が何故書いているかというと、東浩紀さんとそのご友人の方が「講演会の文書化・公開化」が法的にイリーガルかもしれないと論じていたことで、まさに「ファウスト」の新人賞規定が変更されたらしいことを文書化したひとたち(多くは10代だ)が、不安に駆られているのを文章で読んだからだ。
出版界というか言葉や情報を商売にしている世界では、こういう講演会の発言が重要で、その伝播を聴衆に託している。それを期待している。そういうケースが多い。「ファウスト」新人賞もそのケースに含まれるんだろう。
けれども、出版界はそういう情報が流通するスピードを遅く見積もっていて、その時間差がある間に講演の出版物化を行って商品化してきた。別にそれを僕は悪いとは思わないし当然だと思ってるんだけど、インターネットが普及することで、そういう商品化が困難になってきた。それが今回のような議論が起こった背景にあると思う。
しかし、そんな背景はともかく、講演について文章化することはどう捉えるべきか、ということが論じられるべきなんだろうけど、その肝心要の議論の発端となった猪木さんが書かれた文章が削除されていることに気づいて僕は愕然としている。
●2003/11/22(Sat)--->その2
都内の大型書店をふらふら歩く。岩波書店から柄谷行人著作集みたいなものがでることをチラシで知る。もう柄谷行人は歴史になったんだなあ。僕が学生の頃は、「群像」の新人賞審査員をしていたりと現役感が強かっただけに、「歴史」になったことを強く感じる。そういや著作集に収められる「隠喩としての建築」は、これまで読むことができたものと別バージョンかもしれないという噂があって、まるでビートルズみたいだ。こうなってくると柄谷行人はロックミュージシャンと何ら変わらないよなあとつくづく思う。
それからRirikaさんに80年代文学における「他者」概念などの流行について触れた手前、当時の流行がいかなるものだったか考え直すためにドゥルーズ/ガタリ『カフカ マイナー文学のために』を買った。「マイナー文学」という言葉は母国語からはみ出してしまった文学を指しての言葉だったと思うのだけれども、これを機に理解を深めたい……だけれども、僕がこういう読書をしてしまうのは、僕がかつて日本文学を学んでいたからだなあ。
柄谷行人を読み直し。『畏怖する人間』に収められた「意識と自然」に小松川事件の李珍宇の名前が出ていたことに今回になって気づいて驚く。小松川事件は『内部の人間』で文芸批評家の秋山駿が扱った。柄谷行人が秋山駿を意識していたことがこのことからわかるけれども、こういう文脈を知らない人は読んでいる最中にキョトンとしてしまうんじゃないんだろうか。僕だって秋山駿を今年になって真剣に読んで、ようやく文脈が読めてきたんだし。
やっぱり僕は、かつてあったものより今出版されている本の方が整理されているんじゃないかと思ってるんだなあ。そういう効率の良い読書(という形式の情報収集)を、この前文学フリマにいらしてくれた方とのメールで話題になったことを踏まえても、情報っていうものが整理され始めた時代だと思う。そういう整理された状態が悪いとはちっとも思ってなくて、今後はどんどんそう言う方向へと流れていくのだと僕は考えている。浅羽通明さんがそのようなことを語っていると聴いて、僕なんかはなるほどと強く感じた。
たとえば社会システム論の権威であるルーマンが5年前に死んで、死ぬ前から用意されていたものが社会システム大全と題されたものが去年全て刊行されたみたいだから、これから総括がしやすくなるんだと思う。そういう総括が終わってからの方が、後から来るひとたちはお得なんじゃないかなあ、なんて僕は心の何処かで思ってる。ただ、もちろん総括がされずに議論がどんどん膨らむ分野と言うものもあると思うので、それはそういう甘い考えじゃ難しいのかもしれないけど。
取りあえず僕は文芸批評というジャンルはドッグイヤーだった状態が終わって整理をし始めているんじゃないかって思う。造船業みたいな状況じゃないかなあって感じる。それで僕も整理を行えたらなあ、とちょっと思う。
ところで「このひとは文学の話をすると重くなる」と紹介された。意識しないでおこうと思ったけれど、やっぱ、そうなのかしらん。
●2003/11/22(Sat)
K氏の読む価値なし終日記(ゾンビ)のK氏が『シンセミア』を読み終えていたことに気づく。うわー僕は読み終えてないよ。でもそっかー、エルロイと阿部和重かあ。そういう読み方は全然ありだよなー。『無情の世界』あたりは、阿部和重の暴力性が純文学を普段読まない人にもコツーンとはまるカンジだと思ったんで薦めたこと仕切りだった学生時代を思い出す。でも、みんな「ハードカバー」で「表紙がおしゃれ」であることを理由に買ってくれなかったたんだけど。それに対して僕は、えー!と思って早3年ぐらい(?)なのだけど、もしかしたら「えー!」とか言っている場合じゃないのかもなあ。
あと、阿部和重以降は阿部和重がその後の佐藤友哉とか舞城王太郎といった作家を語るのに欠かせないと言うか、基準になっている文章を多く読む。みたいな文章を読んだのだけれど、それは大塚英志の文章の読み過ぎじゃないかなあと思う。大塚英志の文章でないにしても、作家の名前を出して繋げて、はい終わり、みたいな。そういう文章を読みすぎたんじゃないんでしょうか。
ところで、こせけいさんがサンパンダンパフレ(「自分の言ったことを自分で聴く」フランス語のスペル忘れちゃった)みたいなことを書いているので驚いた。
●2003/11/21(Fri)
『エコノミスト・ミシュラン』は、対象にする読者に普通のお父さんやお母さんの姿が浮かんでこないことが問題かもしれないと思う。ネットじゃ売れるのかもしれないけど、店頭にあるのを買っているひと余り見ないのが心配だ。これじゃ妄言を吐いている「トンデモ」エコノミストに口をふさぐことや、その声をひとびとに耳ふさぐことが難しい気が若干する。
……それにしても、この本の中でのジャンル分けで、「ユニークなことをいう人びと」という区分があるんだけれど、経済学で「ユニークなこと」を言ってるねーとか言われたら落ち込むよなあ。ブラックだなあ。
●2003/11/20(Thu)
という悪ふざけはともかく、社会学のことがよくわからない僕にもすらすらと読めて良い本でした。書いているラインナップも東大社情研のあのひと(ちょっと業界人トークしてみたかったのですが、止めます。北田暁大氏です)とか、ルーマン研究者などが多く参加していたりするんで、これで1300円は割に合うかおつりが返ってくるかなって本だとは思います。僕は、「ルーマン社会学はルーマンが死んだから終わった」みたいなことを聴いたりもするんですが、それを勉強している人は頭がまあ良いんじゃないの、みたいなことを漠然と考えてるんで、まあわかりやすくお書きになるんですねえ、みたいなカンジに読んでました。いや、本当に良い本だと思います。ギデンズの要約がすごくわかりやすかった。
●2003/11/18(Tue)--->その2
それにしてもwww.kyoto-u.comって、試験対策を書き込めるようになってりしていて、アットホームで良いですよね。実は、こういう試験対策とかをしてあるようなサイトとして初期のカンタン系を作っていたのですが、いろいろあって頓挫したのでした。そう言う意味で懐かしさを感じざるを得ません。
●2003/11/18(Tue)--->その1
のんびりと本を読めることができれば、御の字だと思うのに、何だかそれがままならないことが多い昨今。これもまたふさぎ込む遠因なんだろうか。
当面はインターネットをしないことが一番良いんじゃないか。なんてことも思うけれど。
昨日の僕を元気づけてくれたのは、今月発売の「新潮」。福田和也に対する島田雅彦の反論はこれぞ昔ながらの文壇をしていて話題になっているかもしれない。でも、それは余り僕には響いてこない。あと蓮実重彦は阿部和重の『シンセミア』について、中上健次という固有名をできうる限り遠ざけようとしていて、胸を打たれた。でも、蓮実節がうまく利いていないカンジで、阿部和重を救い切れていないのではないかと、『シンセミア』を読み終わっていないのに(もしくは「からこそ」と書くべきなんだろうか)不安になってしまう。昨日queequegさんに偶然お会いしたときにも話題にしたのだけれど、「中上健次」であるとか「三島由紀夫」であるとか「大江健三郎」であるとか、そういった固有名と作品の関係を安易に語ってしまうことで、阿部和重の作品は他の作家の作品を読まなければ読むことができないように、読者であるはずの僕たちが仕向けていて、その結果阿部和重という作家に報われないことをしているのではないかと僕は不安になる。少なくとも彼の小説を読もうという人口が、こういった言葉の在り方で減っているような気がして、阿部和重という作家の作品をこれまでとはちょっと違った迂回路を取ったりしながら語らなくてはいけないんじゃないかと思った。
それはそうと、僕が本当に「新潮」で喜びを与えて貰ったのは、丹生谷貴志の「スラップスティック」というエッセイ。これはもちろんヴォネガットの『スラップスティック』についての文章。丹生谷さんのヴォネガットへの読みに対して、ちょっと違和感もあるし、意見が異なるところもあるけれど、これはヴォネガットに対してこれまで読んだ中でも格別の文章だと思う。そして、丹生谷さんの文章を通じて、いま『スラップスティック』が絶版であることを知ったのだった。そんな!!!
●2003/11/17(Mon)
東さんご本人から、「文学は死んでいない」といった主旨の言葉を書き込んでもらえたことが、とても嬉しいです。
が、こういった噂を書いてしまったことで東さんを困らせてしまったかと思うと、申し訳なく思います。「噂の真相」に書いてあることなので、まあ良いところ「真相に関する噂」に過ぎないんだろうと思っていたのですが、いろいろと具体的(といっても雑誌掲載時の情報程度)に伝えられて多少信じかけていたことは事実なので、我ながら恥ずかしいなと思います。
ところで、東さんははてなダイアリーでの更新を一時停止してしまったようですが、さしたる理由が見失われても記号として消費されることや、公共性的なものを重んじるならオープンにした方が好ましいと思われながらも親密性を表現しようとすれば閉鎖的な空気を醸し出してしまいがちだというインターネットのややこしさみたいなものが原因ではないかとお察しします。また、僕は長きに亘って掲示板的なものを設置しないでサイトを運営してきたのですが、それは「n × n」のコミュニケーションでは責任応答の義務をこなすサイドが破綻することが目に見えていることが原因の1つでした。東さんは率先してその苦労を買って出られたわけで、この数ヶ月は愉しさとそれ以上の困難が多かったものと思います。
●2003/11/16(Sun)
ちょっと前に訪れたときも気づいてはいたのだけれど、とある古書店から本が消え、ガランドウになっている。書店の窓ガラスには「しばらくの間閉店します」といった意図の掴みづらい文面の張り紙がある。
「神田神保町」の数節を思い出しながら、僕は公道沿いからすずらん通りに入り、書肆アクセスへと向かった。荻原魚雷さんの『借家と古本』(「sumus」文庫)を買いたかったのだ。この本はインターネットで発売されていることに気づいて、買おうと思っては他の買い物で現金が尽きてしまい、買うことを諦めざるを得なくなったりしていた(神田神保町で引き下ろすのが面倒なのが東京三菱銀行に預金している身の上だ)。
ようやく手に入れて、お茶の水駅近くのすかいらーくでトマトスパゲッティが訪れる間に『借家と古本』のページを開いた。面白かった。正直に言えば、悔しいくらいに面白かった。
僕にとって、この本で一番心に残るのは、末尾に置かれた「インターネットと白鳥」。白鳥はもちろん正宗白鳥だ。
白鳥の書いていることは長さがあるけれど、書いていることにはいつも文面から現れてしまうものがある。世の中にはいろいろあるけれど、それには全く意味がないのかもしれない。そういう思いだ。
言い訳がましいことを口にしながらも、感動的な言葉を含ませて、最後の最後に「頼まれたんで」と言わなくても良いことで話を締めてしまう白鳥。不思議な魅力だ。
こんな風に、文学について、評論とは全く違った形で思いを巡らせてしまうように仕向ける『借家と古本』は本当に良い本なので、書肆アクセスなどで手に入れて欲しいと思う。いま僕はこの本の隣にあることが似合うミニコミ誌を一冊思い出していて、それは山崎まどかさんが出していたものなのだけれど、そういえばこのお二人は記憶違いじゃなければ共に「recoreco」に寄稿しているんじゃないかなと思った。
●2003/11/15(Sat)--->その4 ●2003/11/15(Sat)--->その3
そこで終了後queequegさんに、一部の観客を置いてけぼりにしてしまうというか、観客を翻弄しすぎじゃないですか? もうすこしあざとく目印みたいなものを用意してわかりやすくしないんですか? と尋ねると、いや、こういうスタイルなんです。と、とても力強い言葉が聞けた。それはとても嬉しかった。ところで、queequegさん。僕はアルドリッチの『合衆国最後の日』のエンディングには納得がいかないんですよ。いいんですか。いや、アルドリッチはあれだから良いんですよ。なんて、会話をしていると、30分を一人で演じきった松村翔子さんが僕らの目の前に現れた。ポニーテールをした可愛らしい女性である松村翔子さんに、30分ひとりで大変じゃあないんですか、みたいなことを思わず僕は尋ねてしまった。松村さんは、僕の質問に、いやまだ、これから頑張らないと、とこの日2回目の公演が待ちかまえていることを受け止めながら、リラックスしようとしているようだった。次回公演は天王洲で催されるようで、非常に愉しみ。開催間近1ヶ月くらい前から告知をし続けたいと思う。
その後queequegさんに長々と、この時代の文化(で特に作り手のサイド)で感じざるを得ない悩みについて尋ねてみた。僕はもちろん作り手とは言い切れない。こんな泡沫なWebサイトが文化と呼ばれるかどうか、ちょっと悩んでいるところだ。年上の人には、将来的には全てをコミコミで文化と呼ぶだろう、とは言われてはいるけれど。
いや、僕の話はひとまずどうだっていい。それでqueequegさんに投げかけた質問とは大体のところ、こんなものだった。
この質問に対してqueequegさんは現状認識として、大分認められているようだった。こういうことを僕が執拗に考えるようになったのは、友人のエロゲーライターが似たような悩みに陥っていたからだった。
と、長々と(僕自身は殆どしたことがないのに)エロゲーの話をしてしまったが、話を戻すと、
という二つの狭間で作り手が苦しみやすい時代なのだと思う。もちろんメジャーを目指さずに、誰もがビッグマイナーを目指すならそういう苦しみは少ないのかもしれないけれど。でも、他のコミュニティでは自分たちが利用している記号が理解されづらい時代だと思われるので、この狭間を実感することは概して多いと思う。
といったところで、今日の日記は途中でお仕舞い。でも明日は絶対続きを書く。荻原魚雷さんの『借家と古本』が素晴らしかったので、久しぶりに僕は元気が出ているのだ。そのことを書きたい。
●2003/11/15(Sat)--->その2
そういえば松谷加平の生活と意見さんに、80年代文学史的なことがらで再びリンクをして頂いたのですが、筒井康隆と渡辺直巳とスガ秀実との間には壮絶な大げんかがあったはずで、筒井康隆は確か『筒井康隆の文芸時評』で、どちらかを「ガキ」呼ばわりしていたとか、具体的な事実をぼんやりと僕は思い返します(ちなみにこのころ筒井康隆に激賞された新人批評家が大杉重男だった)。でも、そのころの筒井康隆の作品が評価されるべきものかというと、悩むべきもので、それこそ東浩紀自身が筒井康隆のそのころの作品がやや低調気味だという文章を書くか発言しているはずです。
と書いたところで思い出したのですが、今年か去年の「噂の真相」での連載で、東浩紀に「ポストモダンでは小説は死んだ」と発言されたと筒井康隆が書いた、そのように僕が伝聞したことを思い出しました。そのウワサを聞いたのは酒の席ですし、まあ、「噂の真相」に書いてあることなんで信じたくありませんが。
●2003/11/15(Sat) ●2003/11/14(Fri)
取りあえず思い出せないと言うことは重要じゃない! と今決めつけたので、横浜駅前STビルに明日は向かうとします。14:00の公演に行きます。前回公演した「ユビュ王」が滅茶苦茶に面白かったので、今回も愉しみ。
あー。そういや冬物のコートを見繕わなくちゃなあ。急に今思い出した。
林房雄対談集『日本の原点』(日本教文社)を読んでいる。左翼が転向すると、左翼を延々と気にし続ける右翼になることがよくわかる。転向左翼は、柳田国男が訪れるような由緒正しい保守の家柄に生まれ、一生涯保守だった僕の教わった教授より保守というかタカ派だ。
あと、この本に出てくる「日本!イイ!」的な言説が今と内容も種類も話題さえも同じだと言うことにショックを受ける。まだ総合誌が元気だった1968年ごろ、つまりは35年前には既に「その時歴史は動いた」そのまんまな会話が行われている。「ビッグトゥモロー」な話も出てくる。察するに高度成長期の日本には歴史小説で表現されるものに大事な神話があったんだろう。無論この反対側には遠山茂樹たちが主導していた歴史教育があったのだろう。とか何とか思いはしたものの、そのころ作られた歴史小説的な神話(?)が今でも元気なことにどう捉えたら良いのやら。
●2003/11/13(Thu)
僕が学生の頃というのは、伊藤英嗣がR.E.M.の『モンスター』を紹介するために普段は寄稿しない「ロッキングオン」に文章を書き、佐々木敦がノイズのイベントを催し、この二人が「SPOOKY」という雑誌を作り、野田努が「ELE-KING」を発行していた。この三人の音楽ライターを繋ぐ共通点は中原昌也で、イベントに参加するか彼らの雑誌に寄稿するなりしている。当時の中原昌也はそりゃあ嘘ばっかりの文章を書いたりしたものだけれども、それから数年経ち伊藤英嗣が編集長となった「COOKIE SCENE」では面白い対談やインタビューをしていた。
そのなかでも「ダニアースの唄」への愛が語られる野坂昭如へのインタビューが強く記憶に残る。きっとこのインタビューをきっかけにして、三島賞を受賞した『あらゆる場所に花束が…』の帯に野坂昭如が一筆したのだと思う。
●2003/11/12(Wed)
帰宅後メールを確認。Wresくんの健康状態が芳しくないことを知る。そろそろ暮れが近付いてきたので、我が家では落花生を多く買い込むだろうから、いずれ景気づけに送ろうと思う。
それにしたって気が晴れない。年の瀬が近付くと忙しなくなるからだろうか。毎年この時期ぐらいからこんな感情になる。なんとなく冷え性が祟っている気もするけれど。
大阪殺傷事件のような事件や若い父母が幼児を虐待死させる事件を見たり聴いたりする度に思うのが、似たようなことは昔だってあっただろうということと、「昔だってあった」ことが突出して増加しているような実感。ともかく、こういう事件に遭遇すると、「火垂るの墓」の餓死していく兄弟のような、直面している現実に擦れ違い続けることによる悲劇を見ている気分になる。自分たちが思い描いていることを成立させるのに必要なもの(金銭なり社会制度なり何なり)が欠落していることに気づけないか認められないが故の悲劇のように感じてしまう。
●2003/11/11(Tue)--->その2
何を書こうとしていたかというと、文壇。
いや、なに。安岡章太郎は、僕はわりと面白い作家で短篇は結構好きなんだけど、この人が2年ぐらい前かなあ、雑誌「文学界」で、作家って言うのはコネを通じて小説などが掲載されるのが本道だと説いていたと思うのだ。たしか。
それでも、まだコネでデビューを果たした作家というのはまだまだいるはずなのだ。保坂和志だって、そうだったはずだ。これはちっとも悪いことじゃないと思う。入り口が違うだけで、そのあとは作家次第なのだから。と、僕は長らく考えていたのだけれど、最近は何も新人賞など受賞せずとも問題のないだけのひとたちが、わざわざ新人賞を受賞しなくてはならない時代になっている。これはいったい何なのか。実績がすでにあるひとも、作家の子息も、一応(?)キャリアパスとして新人賞を受賞していく。そのことで座席は確実に減っているのだけれど、しかしどうして新人賞の受賞が必要なのか。
かつて社会学者である日高六郎が「文壇」の排他性持つというか閉じたコミュニティであることを論じたように、これはこれで考えると面白いことだと思う。暇つぶしにはなると思う。
●2003/11/11(Tue)
いや、実際問題チャットなんか面白くないけど、ハム無線で会話をしたら楽しそう。と思ってパラパラと記事を読んでいるとハム無線とちょっとずれた方向の合法なのかしらんと訝しく感じてしまう情報があった。まあ、それはいいや。で、無線機器は高価だと気づいたので何とかIP電話的なものを導入するのが良さそうな気がした。しないけど。面倒くさそうだから。まあ、それを言ったら無線免許を取得するのが一番面倒くさそうだけど。
そんな面倒くさがりの僕なので現状はもちろん打破していない。
●2003/11/10(Mon)--->その2 ●2003/11/10(Mon)
この時代における「批評」や「評論」が信頼するに至るまでを、テクニカルな面から分析したものだと思う。僕はまだ、これだけテクニカルに考え抜くだけの糧というか実体験に乏しいから、高木浩光さんの議論に納得しそうになりつつも同時に奇妙な感覚を覚える。この奇妙さが僕自身がいずれ経験するであることを言葉によって先取されているために訪れるものなのか、それともそうでないのかは全くわからない。この奇妙さが何だったのかを知るには、きっと今の僕には欠けている何かが必要なんだと思う。少なくとも時間は必要そうだと思う。
僕が実感するのは、コミュニティというものが極めて小さく細切れになっていることだ。そして、そのようなコミュニティの在り方を恐らく予測していただろうリオタールが、『ポストモダンの条件』で示していたコミュニティ間でのやりとりが洗練化されていくという仮定に果たして何処まで現実が近付いていくかだ。僕の捉え方だと、少なくとも今より5年くらい前よりは洗練されたとも言えそうな状況にはあると思う。でも、そんな状況下での信頼の形成っていうのが、どういう風になされるのかについて、僕自身はまだ考えがまとまりきれていない。うーん。これはやっぱり考えなくちゃいけないことのような気がしてきた。
●2003/11/09(Sun)--->その4
●2003/11/09(Sun)--->その3
「ライトスタッフ」を見終える。家系的に延々と続くミリタリーに対する特殊な愛好が復活しそうになった。トム=ウルフの原作は冒頭が暗いので読むのを止めていたんだけれど、読み直そうかなあ。
●2003/11/09(Sun)--->その2 ●2003/11/09(Sun)
先輩から借りた「ライトスタッフ」を見ている。そういえば、この映画にはサム=シェパードが天才パイロットのイェガーを演じている。
そういえば昨日書いた村上春樹に関する文章を松谷加平さんにコメントされていた。
僕は純文学から拒絶された作風の持ち主がライトノベルに向かったことを、柄谷行人たちだけの責任にはしたくない。そりゃあもちろん、僕には柄谷行人は苦手な評論家だ。だとしたって、「批評空間」というサークルに全てを押しつけるのはフェアじゃない。言葉の伝言ゲームでそういう結論のみが語られそうな気がしたので、それが嫌なのだ。
そして、更に言えばエンタテイメントやライトノベルに向かった作家というのは、純文学に拒絶されただけはなくSFマガジンでデビューできなかった作家だと言うことだって、忘れてはいけないんじゃないんだろうか。本来なら純文学が引き受けられない作家をSFという陣営が引き受けていたのに、その前提が壊れ出す。かつてはハヤカワ文庫で年ごとに日本SF作家のアンソロジーが出版されていたと思うのだけれど、そういうアンソロジーは90年代を迎える前に消えていたはずだ。それはどうしてかというと、日本人作家の書く分量が減り、SFというジャンルが若い作家を迎え入れられなかったことを意味している。
それこそ極端な話をさせて頂ければ、日本において、そうやって疎外された作家を一番救っていたかにも捉えることができるのは、実は「批評空間」サークルじゃないかという結論だって導き出せる。奥泉光やいとうせいこうの一連のSF的作品をいち早く評価したりして、その後も似たような作品を流通させていたのだから。SF雑誌に掲載されたっておかしくない作品が、この時期の文芸誌は割合フォローしていたと言えるのかもしれない。
つまり僕は、「そんな単純な話じゃないぜ」ということを書いているのだ。若手作家をライトノベルというカテゴリに押し込んだのは、純文学だけじゃない。それはSFだって同じだったはずだ。ミステリだけが、許容量の広さから若手作家を拒まなかった。そういうことだったように思う。
けれど、みんな程度が悪かろうと、単純なストーリーを求めている時代だ。単純な話じゃないとまとめられないだろうから、調査を余りしなくなった編集者の話を聞いてはがっかりすることが僕はよくある(って僕は一介の普通のサラリーマンだけれど、こういう愚痴は意外と都内の書店を廻っていると聞こえる)。だから、半ば以上僕は諦めている。しかし、いま気づいたけれど、僕の書いていることは唐沢俊一さんみたいだ。僕なんかじゃSFとその周辺に関する知識が乏しすぎて、唐沢さんのようなしっかりした内容になってはいないけれど。
でも、これはオタク文化というより日本文学の問題でもあるので、雑誌「国文学」のバックナンバーだって当たって調べることができそうだと思う。というか、そういうことを僕は好んで学生時代にしていた。
●2003/11/08(Sat)--->その2
それは、「村上春樹は「批評空間」の批評家たちに疎外されていた」ということ。それは一面において正しく、そして一面において新しいフィクションを作り出す。
というのも、村上春樹はその登場から間もなくして文壇から疎外されていた。研究者以外からの高い評価というのは少なかった。サム=シェパードの翻訳をしていた畑中さんとか早川書房出身で海外文学(特にホラー小説)に詳しい風間賢二さんとかは高く評価していた。SFの世界でも高く評価されていたと思う。でも、村上春樹は「文壇」全体からパージされていたようなもので、好意的な批評といえばデビュー当時では三浦雅士、80年代後半では鈴村和成、90年代に至って福田和也、とごくわずかしか好意的な批評がない。
そういう村上春樹に対する「文壇」での評価の低さの原因を、「批評空間」に全て押しつけてしまう風潮がちょっと垣間見えたけれど、それは違う。たしかに中上健次が『地の果て至上の時』で谷崎賞を逃した際に、村上春樹が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で受賞したことが「批評空間」サークルでの評価が減退する要因になった気がしなくもない(それまでならスガ秀実が『メタクリティーク』に所収されている文章で好意的に評価している)。けれど、みんな、ちゃんと本を読んで欲しい。そうすれば文壇全体で村上春樹に対する違和感を抱いていたことが実感できる。
●2003/11/08(Sat)
今日は地元の図書館に行くかもしれない。
●2003/11/07(Fri)
いかん。寝てしまっていた。続きはそのうちに。
●2003/11/06(Thu)
みたいな話を延々としていたため、昨夜行おうと思っていたことは全て行えなかった。いやまあ、それは良いのだけれど、ちょっと眠い。何を書こうとしていたのか思い出せない。マルクス=エンゲルスの文芸論書を買った…のだっけか。いい加減だ。思い出せない。あ、そうだ。『リアル鬼ごっこ』を買いましたよ。出だしを読んだカンジだと、昔懐かしいバカSF。まぐら日記の日高さんが耳にしたという「キル・ビル」に対して柳下毅一郎が評価した言葉をもじるならば「誰もが書いてしまう種類の小説……中学生までに」ということになるではないかと思う。そう思うと、ふっと童心に帰れて面白く読めるんじゃないかなあ。みんなだって、中学生の頃に火浦功の小説を読んでたでしょ? 知らぬ間に『トリガーマン!1 2/5』が出ていて驚いたでしょ? 恐らくそういう小説じゃあ、ないですかこれは!(ドン!←机を叩いてみました)
冒頭1ページ目に置かれた文章が
なんていう文章です。誤字脱字の多い僕が言えた義理は無いのかもしれませんが、数字表現の一貫性がありません。これはたった3行の中のことです。呆れると言えば、呆れます。が、それだって別に良いじゃないですか。と勢いだけで擁護してみたいのですが…。
●2003/11/05(Wed)
この映画の持つ「こわさ」を説いた淀川長治の文章を思い出しながら、ゆっくりと愉しむとします。
amazon.co.jpが、ホーム&キッチンに関しても販売を活動したので、ついつい閲覧をしてしまうと、妙にスペイン製だというSol Viento 遠赤外線パネルヒーターが無性に欲しくなってしまいます。そんな余裕はないのに。
●2003/11/03(Mon)
けど、ちょっと不安なのは、こせけいさんが、観察眼鋭く穏やかな口調の方にして「ケレン味のある一角」と評された区画の商品しか買っていないような気がすることです。なんだか年上の男性たちが、気の良い青年に「あれだこれだ」と詰め込もうとしている構図にならないかと、自分もそうしてはいないかと、ちょっと不安になってしまいます(これは、こせけいさんに限らず年下の方に会うときによく感じることです)。
それはともかく、こせけいさんが僕の佐藤友哉に関する文章について「もう少し詳しく書いてほしかったとも思う」と書いているのは本当にその通りで、実は文学フリマに書いた文章には続きがあって、「なぜピアノは沈められたのか」というタイトルの文章を書こうとしていたのだけれど、時間が無くて泣く泣く諦めたのだった。
それにしても昨日の日記には一番大事な言葉が欠けていました。
また、改めてメールをお送りしなければならない方もいらっしゃると思います。幾日か遅れてしまいますが、なんとかメールを差し上げたいと思っております。申し訳ありません。しばしお待ちください。
ああ、これでほっとできました。
……会社帰り、なぎら健壱『日本フォーク私的大全』(ちくま文庫)を読みました。しみじみと良い本だと思います。高田渡と忌野清志郎は僕のヒーローなので、堪らないものがあります。もっとも前者はアルコールに浸かりすぎています。が、文学フリマに向かう途中、幼なじみの横で口ずさんでいたのは、その高田渡の「銭がなけりゃ」でした。
会社の先輩の口車に乗せられて、DVDプレイヤーを買いました。8000円は安いと思うのですが、なんだか不安な気もします。
●2003/11/03(Mon)
唯一の心残りは、後輩のKISS→Cくんに出会えていないことなのですが、一体どうして出会えなかったんだろう。キクチにはちゃんと会ったのに。僕の所の本が買えたのかが不安。僕と幼なじみが交代で幾度と無くと青山ブックセンターのコピー機に出向いていたので、擦れ違う可能性はとても高かったとは思うけれど。
それにしても、もめ事らしいもめ事もなく、ツツガナク文学フリマが終わったことにほっとしています。
……アートマニア面白いなあ。
●2003/11/02(Sun)--->その4
明日の文学フリマに出す本に書いた内容は
の以上3つです。
もう当分は活字を書くのも見るのも嫌です。フリマで本を買っても、その日のうちは読めないかもしれない…。
●2003/11/02(Sun)--->その3 ●2003/11/02(Sun)--->その2
ところで、このサイトを読んでいる人たちがどんなひとたちなのか、僕は未だにはっきりとわからない。ただ、佐藤友哉という単語で見に来てくれる人が思ったより多いみたいだった……今回のフリマ用の文章は以前のままでは駄目というか、いろいろと不足気味だと思ったのでいろいろと膨らみを持たせそうとしたのだけれど、どうやら無理っぽい。同時代ゲームのKさんだったら、きっと文章にすることができる! そんなことを考えながら、今回は泣く泣く昔のバージョンのモノをちょっと手直しする程度に。まあネタは仕込んだのだけれど、アウトプットする余裕がないということで。
ところで、日記を書いているのは、もちろんストレス発散。たすけて。
それにしても、こんなサイトでも今年の5月ぐらい(記憶あやふや)から文学フリマのバナーを貼っておいたけど、少なからず効果はあったのかなあ。あったとしたら、とても嬉しい。
●2003/11/02(Sun)--->その1
えーっと。文学フリマですが、 第一回と異なり、非常に草の根的な始まりと広まりを見せている今回の文学フリマのようなイベントが今後も続けば良いなあと思う。
●2003/11/01(Sat)--->その6 ●2003/11/01(Sat)--->その5
これが文系力だ。明日はない。
●2003/11/01(Sat)--->その4 ●2003/11/01(Sat)--->その3 ●2003/11/01(Sat)--->その2 ●2003/11/01(Sat) ●2003/10/31(Fri)
文学フリマつながりですが、白黒学派の蔓葉さんが立ち位置を自己紹介的に書いてください、とお書きになっていたので、ちょっと書きます。
えーっと、うちは僕と幼なじみが格好良い詩を書く人だなあ、と思った人を紹介するために本を出します。でも、それだけだと、ひとが来ないカンジが今したので、「いま僕はこんなことを考えている……のだけれど、その元ネタはここらへんだよメモノート」みたいのを付します。どうでしょうか。明日必死さこいて作成します。許してください。なんで謝るのかは自分でもわかりません。
さいきんインフォシークにアクセスしづらいのはどうしてなんだろう。運が悪いのかなあ。僕だけインフォシークにアクセス禁止になってたら笑うよなあ。あはは→DNSサーバに関する深い話を詳しい方にしていただく。
北田暁大「嗤う2ちゃんねる」の原文にようやく出会えた。正直よくわからなかった。80年代のお笑いの話と2ちゃんねるの話題がドッキングする辺りの違和感が何とも言えなかった。本当に不思議な文章だと思う。2ちゃんねるでのコミュニケーションモデルにお笑いが参照されているのに、90年代以降のお笑い、つまりダウンタウン以降のお笑いについて、さほど触れられていないことが余計に不思議だった。何なんだろう、このもどかしさみたいのは。変な文章だと思う。
●2003/10/30(Thu)--->その2
というわけで、何について書きたいか、というと、その収益金。
である。
ちょっと司馬遼太郎風に書いてみたけど、あんまり意味はないかな。
[Wresくんへの私信]
●2003/10/30(Thu)
そんな考えを脳の片隅に追いやりながら、僕が手にしたのは植草甚一の『こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた』の初版と中村光夫の『志賀直哉論』だった。体調が本調子だったら、もっと凝りに凝ったチョイスをしたかったのだけれど、この2冊に押しとどめた。古本市で2冊しか買わないなんて言うのは何かもったいない。買い物を終えた後で、偉い人をお見送りして、近くの蕎麦屋でざるを啜った。こういうときぐらいはぱーっとした食事をしたいけれど、何分胃が重いものを受け付けてくれないしなあ。
ところで、花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』と保坂和志『残響』が重複していて、手に余って、困っているのですが、誰か引き取ってくださる方はいませんか。古書店に持っていったところでたいした値段にならないと思うので、誰か必要なひとにお渡しした方が良いと思うのです。文学フリマのときぐらいしか、当分は外出しなそうなんですが、そのときにでもお渡ししたいと思います。欲しい方はメールでもください。なんとなく一通もメールはないような気もするのですが。あはは。
あと、これまでうんぬんかんぬん悩んできた僕にとってのロマン主義問題は、背後主義者と100%この思い伝われシンドロームを一緒に扱う言説が流通しつつある、と考えることでひとまず決着をつけたい。あとで細かく考えるけれど、それはきっとルーマンあたりを読んでからじゃないかなあ。あ、そうそうボルツの『意味に飢える社会』って序章が一番面白くて、あとは何というかアイデアをがーっと書き散らしたようなイメージ。批判理論について、あれだけまとめてみせた人間があまりまとめようとしない気がないようなので、驚いた。
●2003/10/29(Wed)
今年の風邪は胃腸にガツンときます。先輩がスーパースプレッダーであるところの僕由来のウィルスにノックダウンされた。即日で。
そいや、神保町の古本市は始まったんだっけ。
土曜日に必死になってフリマ用の文章を仕上げれば、日曜日にはちょっと神保町によれるかなあ。
あ、そうそう阿部和重『シンセミア』が手に入った。買えたよ。耕田さんとqueequegに、ようやく顔をお見せできる。ふう。読み終わるのは当分先だけどさ。
R.E.M.のベストアルバム用の新曲PVを見てるんだけど、彼らはカッコいいままだった!良かった嬉しい!
北田論文について考えていたら、2ちゃんねるを利用した情報操作にアタマが行ってしまった。不健康だと感じたので考えることは当面ストップしたい。いやねー、北田論文は読んだことはないけれど、「リアルなものを求めています(シュミットにとってのロマン主義)」→「煙の立たないところには火が立たない=リアルがあるかもしれない」→「2ちゃんねるはリアル(かもしれないもの)の宝庫」→「反論があるとしたら、それは非がある=火がある証拠と考えよう!」という2ちゃんねらー的な思考経路を説明しているのだと思う。でさ、僕はそれなりに普通に考えるからさ、そういう思考傾向を予想して、煙を立てることってあるよな、とかさ、想像するんだ。情報操作としてね。きっと、そういうことは、リアルなものを求めている2ちゃんねらーには、このうえなく腹が立つことかもしれないけどさ。で、これは、他人の評価を空売りというか、下げるのに利用する手口になると思うんだ。
もちろんね、きっと、これの逆バージョンというか、裏バージョンというのがあって、それは「おーい、この株は値が下がる。値を落としまくろう!」とか主張すること。あれ、値を下げるのと同じ気がする。そんな気がするかもしれないけど、実はそうじゃないと思うんだ。株とかって流通してナンボだから、買い手の意志が空売りだろうと何だろうと、取りあえず手形を掴ませて流通させることに意味があるときがあるんだよね。きっと。だから空売りのために株を買おう! でも、値が上がるんだから株を買おう! のどちらでもきっと良いのだと思う。
なんてことを、僕の知る限り40年ぐらい前から人間は考えていたわけで、そういう文章をそれなりに読んだので、考えたくないことまで考えてしまう。そりゃあ考えたくないことを考えるので落ち込む。で、落ち込まないためにあまり考えないようにして、できるだけ言葉を額面通りに受け止めることで情報処理を楽にしようとすると、今度は「真正」な世界を望むものとして「ロマン主義」という言葉に当てはめられてしまうこともある。というわけで、「ロマン主義」という言葉の融通無碍な側面を感じたような気がする今日だった。気のせいだと良いんだけど。
でもね、問題はすこしわかっているのだ。おそらく問題は、世の中に潜んでいそうな「本当のこと」と、自分の伝えたい「本当のこと」をいっしょくたにしていることなのだ。どちらかを求めることをいっしょくたにして「ロマン主義」と呼べば、まあ、フィーリングで伝わるんじゃないと思われていることが、僕が混乱する原因なのだ。自分の外と自分の内の区別を多くの人がしていないってことなのだろうけど。まあ、そういう風に考える時代なのかなあ。まだ考える必要は十二分にあるかな。
●2003/10/28(Tue)--->その2
あと、僕は今日、学生時代お世話になったスピノザを研究していた方のページを読んだ気がするのだけれど、気のせいだろうか。うん? というか、僕が学生時代にお世話になった方の日記とかが俄に復活している気がする。はっとすること多し。
●2003/10/28(Tue)--->その2
それからバンヴェニスト『一般言語学の諸問題』をすこし捲って、もう眠りたくなった。
●2003/10/28(Tue) ●2003/10/27(Mon)--->その3
北田論文を僕が意識せざるを得ないのは、次の点に尽きる。
ごく限られた範囲とはいえ、メッセージを伝えることに対して「ロマン主義」的かどうか考えている、と文章にしているひとが少なからずいること。
僕はそんな風に「ロマン主義」うんぬんとこだわってしまうのは、コミュニティごとに言葉の意味合いが全くと言っていいほど違うことが原因だと思っている。それこそ「サブカル」という言葉を聞いて僕が連想するものと、僕のことを「サブカル」と呼ぶ人との間には途方もなく差がありすぎる。それこそ柳下毅一郎(だったと思う)がむかし「クイックジャパン」を、オタクがサブカルをしようとしている、と評したニュアンスが伝わりづらい世の中になっている。
いやいや、言葉の重みや意味合いが異なることを、世代間のギャップとして捉えることも可能だと思う。でも、それだけとは言い切れない何かがある。それに少しでも触れたのが北田論文であって、それゆえに反応を示すひとがいる。そんな気がするので、改めて読んでみたくなった。
しかし何故僕がそう思うようになったかというと、これ以上ないくらいに、僕は北田論文の特徴をとある方に教えて頂いたことが原因なのだった。そして要約を聞く限り、どーも2ちゃんねるのナショナリズムの強い部分と折り鶴運動の2つをどう関連づけたが鍵になりそうだった。それにしても30秒足らずだったと思うけど、あんなにカンタンに説明ってできるんだなあ。
●2003/10/27(Mon)--->その2 ●2003/10/27(Mon)
それでは、みなさん、当日はよろしくお願いします。お互い笑うしかないのかもしれません。これまで失礼があったと思いますが、なにとぞ宜しくお願いします。なんなんだ、これは、と思われる方もあるやもしれませんが、真面目な話、僕自身もどう反応して良いのか、本当にわかりません。ですが、人生って言うのはこういうハプニングがあって楽しめるような気がします。
素晴らしい人生と素晴らしい文学を感じる掛け替えのない一日に。それでは。
●2003/10/26(Sun)--->その6
■カンタン系の10月に愉しんだ書籍
【評価基準】
今月はこれくらい。本当に今月は余裕がなかった。
●2003/10/26(Sun)--->その5
「女の子」という言葉を本当の性別と捉えないで考えて頂きたい。もしくは、そこは批判してももらっても構わないのかもしれない。けれども、この文章には考えさせてくれることがたくさんある。そのことを知っていたから以前にも引用したのだけれど、やっぱり今でもそう思う。
●2003/10/26(Sun)--->その4
ということを確認するためにも、『シンセミア』を買わないと。
事実上、阿部和重は「無冠の帝王」と言って良い。僕の父親は朝日新聞の「ひと」の欄を見て、この作家は大した物だ、と小説を一切も読んだこともないのに口にした。それは野間文芸新人賞を受賞したときではないかと朧気に記憶している。けれども、この作家にはもっと大きな賞が受賞されるべきだったと誰もが思っている。それはqueequegさん(こんども観劇しに行きたいと思います!体調大丈夫ですか?)も書いているような思いを籠めて、この不幸を忘れる気は僕にはない。この作家が切り開いた光景を確認するためにも、僕はこの作家の名前を幾度でも思い出す。
でも、さいきん本を読む時間が本当に無いんだよなあ。しゃれになってない。
●2003/10/26(Sun)--->その3
部屋で見失って探していた「あの」本をやっと見つけた。ジェェエッットコーーーーーースタァアー。鯨の魂。フジヤマ。これでちゃんとお渡ししできる。ああホッとした。
SFを久しぶりに読んでみようかな、と思って外へ出たら雑誌「ギャラクシー」の創刊30年アンソロジー『ギャラクシー』が上下200円で手に入ってしまう。ジュディス=メリルの小説(!)、ラファティ「秘密の鰐について」、シルヴァーバーグ「すいすい落ちてく」、スタージョン「ゆるやかな彫刻」、エリスン「冷たい友達」、それから死を間近にしたベスターの回想。
あらら、すごいな。
●2003/10/26(Sun)--->その2 ●2003/10/26(Sun)
なぜJBA(というインターネットで日記を書くことを普及させようとした組織)が、批判されたかということを要約してみる。それは単純ではないかと思う。
海外のツールや考え方を輸入をして日記を書くことを実践をしようとすること。そして普及活動への評価すること。
コミュニティとコミュニティの間には(もちろんコミュニティの内部にも)、いろいろと温度差がある。だから、摩擦は生じる。でも、その摩擦がコミュニケーションそのものだ。その摩擦をある程度は引き受けなくちゃいけないと思う。その摩擦を揉み消そうとすると、閉鎖したコミュニティのように思われ、批判されてしまうと思う(ちなみに僕は摩擦を揉み消しそうな自分がいると思うので、長らく掲示板を設置しなかった)。
コミュニケーションをとるのに、そのコミュニティの属さなくとも、他のコミュニティの人間としてコミュニケーションが行えるようになりつつある時代だと思うので。
あと、インターネットは、成果メディア(貨幣・権力・愛うんぬん)と密な関係を作りきれていないと思う。これも、インターネット上のコミュニケーションに影響を与えていると思う。と書いたけれど、ルーマン社会学を僕は、あんまし理解してない。ちょっと「成果メディア」という言葉の使い方を間違えていないか不安。わかりやすい本をかじったぐらいじゃだめかもなあ。
●2003/10/25(Sat)--->その3 ●2003/10/25(Sat)--->その2 ●2003/10/25(Sat) ●2003/10/24(Fri) ●2003/10/23(Thu)--->その2
明後日、携帯にメールの転送設定をする必要がある。忘れぬよう。
文学フリマで発売した「See it now !」に書いた佐藤友哉論と記号についての覚え書を公開しました。くわしくはこちらをご覧下さい。
カンタン系は新訂カンタン系の方で更新していくので、ブックマークやお気に入り、アンテナなどの御変更をして頂けると幸いです。ていうか、細かいことはともかく今後は新訂カンタン系の方を見てください。いや、もう、ほんとう、お願いします。
日記にアンカーを付けるのが大変なので、新訂カンタン系に移転予定。以上。ここは削除しない予定です。
この日記の日付を正しくふり直したいんだけど、もう不可能に近いなあ。どうしたもう。
今年の僕は疲れ切った。
忘年会を催したい。
けどまあ、今年の僕は燃え尽きたのと12月に入って平均気温がめっきり低くなったことを受けて、あまり口を開かないだろう。今年一年はよくしゃべり続けていたようなものだ。来年はなるたけ沈黙をしていたい。というか寒いと本当に口も手も頭も止まる。
「女性自身」と「SPA!」を読んでいて気づいたのだけれど、稲葉振一郎さんとジブリの鈴木さんはうっすらと似ている気がする。と書いてみて気づいたけれど、極めて局地的な文章だと思う。それに週刊誌に掲載された顔写真を比較している休日はわれながらどういうものなんだろう。
わかった。結論が出た。パーマリンクはとても便利ということだ。そんでローカルでテキストエディタで書くのが大好きな僕はblosxomがお似合いだ!ということなのだな。しかし今年一度インストールしたけれど、環境設定の手順忘れちまったい。あとすごい勢いでプラグインが増えている気が。
今日になってブログツールは優秀だと言うことを痛感した。もう、いっそのことココログとか始めた方が楽なんだろうか。僕は楽であるか無いかしか考えたくないなあ。
10 MINUTES OLDERを観にいきたいんだけれど、誰かもう観た人はいるんでしょうか。ホシヒコさんは見終わっていそう(イメージ)。
ゴダールとかエライひとの映画は、エライひとの作品なので、エラく眠くなるときがあるんだけれど、10分ずつの細切れなら耐えられるんじゃないかなあ、なんて。しかし、このままだと、また例のごとく一人ぼっちで映画を観に行くことになるな。
http://www.10minutesolder.com/
したたかに酔いつぶれているぞ。がー。
明日はいつもどおりいつものところへ午後3時頃にはふらついている予定。ご連絡が必要な方は午後1時くらいまでにメールなり電話下さい。なんとかします。眠い。死ね、10ミニッツオールダー! 見たい。見たくて仕様がない。天皇誕生日に見に行きたい! 仕事は本当に終わるのか!?助けて!サミアどん!?(タイヤが足りません)
shikiさんに日付か記事ごとにアンカーを付けることを提言されたので、今日からやってみました。[]内の文字列がアンカーに使用しているものです。"a name=031218pt2"みたいにタグ内を記述しているわけです。ご利用下さい。
うーん。しかし、この日記というか何だか訳がわからないままだんだらと続く文章は、ただひたすらに「僕が毎日文章を書いたとしても面倒くさくなって放り出さない」ことだけを目的にしていたので、そういう細かいことを一切考えてなかった。レイアウトとか、そういうことを考えたって失敗してしまいそうな気がしたから、苦手なことはほっぽって、ただ書いて、そこそこ読めりゃあいいな、っていうことだけを考えていたので。背景色すら使うこと考えるのが面倒くさかった。っていうか、レイアウト的にアンカーを示すのが変だと思うんで、位置について再考します。
向田和子『向田邦子の遺言』を買う。この本を読んでいると向田邦子というひとがまるで西遊記の御釈迦様のようなひとに思えてくる。
今日は多めに書いたけれど、文章の分量を減らしたら、とても楽になった。この調子でどんどん減らしていって、最後は沈黙に近付けばいい。もちろん、そんなことは無理なんだけれど。
ともかくも、文章を書く時間を読書に回せるのが素朴にうれしい。
いま期待しているのはセバスチャン=ユンガー『終わりなき戦いの地』。著者が雑誌に寄稿した記事を集めたもので、タリバンに暗殺されたマスードを扱った「冬のライオン」といった気になる文章ばかり。訳者によると、これらの記事は「ハーパーズ」や「ヴァニティ・フェア」に寄稿したもの。そういう雑誌に寄稿してるのって格好いいなあ。序文は著者がライターになる以前にクライマー(木こりみたいな仕事)に就いていたことが告白されているんだけれど、これがすごくいい。僕が今年読んでいるアンソロジーは序文がいいものが多い。エルロイなんて良かった。
取りあえずは何とか今年を乗り切ろう。
ジミー=クリフが歌ったみたいに「渡らなくちゃいけない河がたくさんあって。そんで、ぼくのこれぽっちの望みと言ったら生き続けるってこと」なんだっていう気もするしなあ。
シニシズムというのがあるとして、それはまあ、すごい昔からある奴から、近代的っていわれたやつもいろいろあるんだけれど、僕はもし現在に即したシニシズムというものがあるとしたら、それはどんなものかというのがわかった。すごい昔からのやつは金持ちなんてくそくらえーだ庶民の方が現実っていうものを知っているんだぜーってやつで、近代的な奴はよく言われている言説を信じるならば、信じられるものがなくなってしまったように思われるが故に諸価値が無意味に思えるとか言うやつなんだと思う。で、いまのやつは、ちょっと違う。自分の信じているものがあって、その信じているものというのは何だか説明がつかないんだぜ、と思っているんだけれど、それは本当はあかの他人にしてみたら説明がついてしまうようなものかもしれないものなんだけれど、とにかくまあ、それを説明されないと信じていて、その信じているもの=説明されないものの範疇の外にあるものに無関心というスタンスをとることで、範疇の外にあるものを無意味というか無価値に感じるという。そんなことになってるんだと思う。では何故シニシズムが流行しているとするような言説が現れ、それなりに流通しはじめたか。そういう疑問がわく。その疑問に対する解答はあるんじゃないかとは思う。僕としては、人は自らは知っていると信じていられる範疇を持っていなければ不安になるということが少なからずあり、そしてそれは現代においては極めて狭められた範疇になっているんじゃないだろうか、と思う。そんな範疇なんていうのは個々人が勝手気ままに決めたものであり、その勝手気ままが偶さか共有されたかに感じられることがあって、それを大事に思うことはある。けれども敢えて繰り返せば、そんなのは人が勝手気ままに決めてしまったものだ。思いこみと言えば言えなくもない。そんな範疇の思いこみ性というか虚構性をあからさまにされたとき、それを範疇への安住を奪われる恐ろしさから、あからさまにしようとするものを無価値であるかのように振る舞う。シニシズムにある人間が自身が信じ頼りとするものを説明されることを忌み嫌うのは、虚構性を指摘されることへの恐怖なんだろう。自らが頼りとする「ほんとうのこと」が、ただ自分が思いこんでいるだけじゃないか、と指摘されること。そんな恐怖の裏返し。そうした姿で現れるのが現代に即したシニシズムってものなんだろう。僕はあんまり頭が良い方じゃないだろうから、ようやくそれがわかった。
アマゾンで注文した『経済学と実在』が届く。先ほど風呂上がりに全体を流し読みした感想としては、主流派経済学を批判している際に用いるフレーズがマル経出身の学者に多く散見されたようなものと似ているような、ないような……気のせいなんだろうか。いまのところ、評価を保留したい書籍だと考えている。
マルクス経済学だから駄目であるとか、そういったことではなくて、実在性を議論の上で重く置くことで、現在ある貨幣経済を批判することには限界があるのでは?という僕個人の疑問があるので、判断を保留してしまう。「批判的実在論」という高次の実在論は実在論が用意した罠から逃れられるのか。その問いに答え切れているかどうか。そのことを頭に置きながら読むことにしたい。
『ウェブログ・ハンドブック』に関する感想に誤解を招く部分がありました。翻訳者であるyomoyomoさんからメールでのご指摘があったのですが、件名が英語のメールを無意識に読まないようにしていたようで、当方気づいておりませんでした。申し訳ありませんでした。
問題となりました日記は、
2003/12/10(Wed)
にあります。
すいません。あの、「Rebecca Bloodの顔を見たことがない」という話ではなくて、この広い世界でも本の一瞬「どんなひととでも道路やどこかで擦れ違っているかもしれないと考えている」という意味合いで文章を書いたのです。誤解されるような書き方だったのだと思います。あと、メールですが、メール件名が英語であるものはスパムメールだと無意識に処理していて見逃していました。私の不注意でした。申し訳ありません。
この貴金属から何か奇異な巨大な罪をひき出せ
僕らが腕一杯でそれを抱擁するような、
それが体を曲げるほどそれを熱烈に称賛せよ
ところが金だけは、いくら溜めても、これで充分ということはありません。そしてこれは普通云われているいるように、金が物質であるからではなく、それが僕らの精神の所産だからです。僕らの精神は肉体にくらべてずっと貪欲であり、世界を所有することを希い、ある意味でその能力を持っているからです。
三浦しをんさんの夢のような幸福が発売されている。これはボイルドエッグス・オンラインで掲載された物を再収録したもの。僕としては、三浦さんの初期のマンガ評論(にもなっている文章)こそ読み直された方が面白いと思う。そういうところへスポットライトを当てて欲しいな。
ちなみに僕の近辺では、三浦さんの『極め道』は、僕が薦めまくった結果バイブル的な存在になったのだが、品切れかよ! みんな光文社の編集者に会ったら文句を言ってください!(どうやったら会えるのかは僕だって知らないんだが)。
フセインが捕まった。この後のシナリオがわからない。ということは捕まるということをちっとも僕が考えていなかったと証明する。なぜ頭からフセインが捕まらないということを考えもしなかったんだろうか。いま、ちょっとそれが気になった。
結論としては「サブカル」という言葉を今更口にすることの物悲しさだ。
オタクとオタク以外の文化の境界を強く意識して結果オタクの外部を「サブカル」という言葉に託したひとたちが、その外部を意識しないひとたちの目の前で、オタクになるべきか否か、と思い悩んだことを思い返し、そのように未だに思い悩んだことを思い出さずにはいられず、まさしくトラウマとしてある記憶を他の人々に押しつけようとして「サブカル」という言葉が使われる。そのような言葉の使い方をしているひとたちというのは、実はオタクであることをマイナス意識しなくても良いじゃないか、とも主張してきたひとびとと重なっていることもあり、そのひとたちの仕事によってマイナス意識から解放されたひとたちが今度はマイナス意識の共有を迫られるという奇妙な光景になっているのだ。そこが物悲しい。
スタン=ゲッツ「Sweet Rain」を聞きながら、図書館から借りた『マラルメ詩集』(小沢書店)を読む。鈴木信太郎訳とは随分趣が違うけれど、この西脇順三郎訳の方が僕の好みかもしれない。
部屋を片づけていたら吉行淳之介の『某月某日』が出てきた。読み直してみると、バー「牧神」で催された中井英夫の出版パーティに出かける吉行淳之介がいる。彼が安原顕と新宿を迷っているとバーテンダーと思しき男性に「中井さんの会ですか」と尋ねられ、
道案内をしてもらっている。出版会には井上光晴も埴谷雄高もいた。吉行淳之介は新宿界隈で中井英夫が教祖的存在になっているのではないかと述懐する。それはもっともなことで、この吉行淳之介の日記が書かれた1971年は全共闘世代が銀座にある「文壇バー」を嫌悪して新宿ゴールデン街を闊歩していたはずだ(僕の記憶が間違いでなければ)。だいたいにして、吉行自身が「脱銀座」をすべく努力していることを日記に記している。
広末涼子が結婚をした。
妊娠しているようなニュースも聞いたから「できちゃった結婚」だ。すげえ。
ただ、僕の知っている人にはヒロスエという存在を大事にしているひとが多くいる。
今年「日本の未来と広末涼子を考える会」(どんなだ)が催されたとき、殆どの人間が広末涼子のことについて語らなかった。会合の名称なんて、取りあえずなければいけない程度のもので、ローリングストーンズのミック=ジャガーが歌詞なんてどうだっていい歌えりゃいい、と言ったことと何ら変わらないんだろうなあとスーツ姿の僕は漠然と思って、そういうことを口にした。
するとトヤマさんが、「『元カレ』は全話見たんですよ」と厳かに述べ、一息吐いてから「『元カレ』で日本全国のヒロスエの元カレが戻ってきたんです」と断言した。
トヤマさん、いまどう思ってるのかなあ。
いま僕が気になっている本は『ドグマ人類学総説』という本。
たしか日曜社会学で「弩級の駄本」と書いてあった気がする。アガンベンなどの監訳も勤めた西谷修の名前が監訳者にあることと目次を見る限りでは、管理社会の起源を近代化の過程から読み取ろうとする著作じゃないかなとにらんでるんだけれど、それにしたってものすごい言われようだったように覚えているので、気になる。買いはしないな。
さいきんの宮台真司の印象。
社会学に関する議論を読んでいるととても安心する。宮台真司がシステム理論について書いた文章は、隙がないカンジで良い。「ZAI」の連載は面白い。
歯科医へ定期検診にでかける。何も異常はないと言われたが、違和感があった箇所を調べてもらうと虫歯が見つかる。その場で工事。痛い。
疲れているのと苛立っているので文章が雑になるので特に何も書きたくない。
もし舞城王太郎が気に掛けているとしたら、罠に隠れて見えにくくなっていることがらに対する指摘で、これこそがまさに少ない。
『ウェブログ・ハンドブック』読了。でももう前半部を忘れてしまった。僕の記憶力が危うい。
いわゆるカンタン系における最大の問題は、日記に書いている書籍以外にも本を買っているということであり、そこで金融後方中央委員会が配布している「みんなの家計簿」をダウンロード。これぐらいのラフさじゃないと僕が利用できない気がしたけど、ラフすぎて自分が何をしたいのかわからなくなった。好い加減飽きて、『ウェブログ・ハンドブック』をちょっとだけ読み進める。僕が以前から意識していることや、反対の意見を持っていることが書かれていたりしたけれど、とても面白い。あと、どうだって良いこととつくづく思うけれど、(おそらく)顔を一度も拝見していないyomoyomoさんがこれを女性言葉に翻訳していたというのはとても興味がある(こういう書き方になるのは僕がどんなひととも一度は世界の何処かで擦れ違っているという幻想を持っているからなのだけれど)。レベッカ=ブラッドの文章を女性らしい言葉回しで翻訳することになったのは、demiさんがレベッカ=ブラッドを紹介したことが少なからず影響していると思うのだけれど、そういうdemiさん的文体というか「何ですと?」(P.150)みたいな女性らしい(?)フレーズが使われている。非常に読みやすい口語体。
知り合いのひとと話していると、ホームページを持っていると言うことだけでインターネット代表みたいな扱いをされてしまう。そんな僕はyomoyomoさんが翻訳した『ウェブログ・ハンドブック』を買った。この本の内容を滅茶苦茶要約して面白そうなところを引っこ抜いて説明するのが僕の役目なのだった。
さて、そんな帰り道ラジオを聴いていたら、J-WAVEのJAM The Worldで伊藤譲一がウェブログについて語っていた。彼の説明は時間が限られているとはいえ時として大ざっぱすぎたし、ブログが普及したからアクセス解析用のツールも開発が進んだように説明しているように聞こえたりもして、なかなか微妙な内容というか、なんとも言えないかんじだった。でもまあ、面白かったのは彼が暗にはてなダイアリーのことを語っていたことだ。なぜブログツールは無料で配布されているのか?または利用ができるのか?という質問に「アマゾンに(アフィリエイトで)お客を誘導する」という手法があることを、そういう「儲け」方があることを彼はビジネスマンとしてしっかり語っていた。そんなアフィリエイトを利用したブログツールなんて、はてなダイアリーぐらいしか思い出せないし、そうでなかったとしたってあれはその手法の代表例だろう。
つまり彼ははてなダイアリーをブログとして評価しながらも、あえてその固有名詞を語らなかった(インタビューアーだった野中英紀は近頃のトピックとしてココログについて触れていたが)。それはそれで興味深いのかもしれないけど、ひとまずおいておくとしよう。
この放送で一番面白かったのは、伊藤譲一が日本の民主主義が貧弱さをメッセージを伝えることの乏しさに見ていて、それを補う手法のひとつとしてウェブログに注目していることだった。このときの彼は極めて口がなめらかで技術的な質問に応対しているときは打ってかわったようだった。
そんなことを口にしたってどうしようもないと知りながらも口にしてしまうのは、小説なんか面白ければそれでいいじゃない、という言葉でその言葉が如何にも軽々しく聞こえてしまうのだから困ってしまうのだけれど、だからといって小説に退屈さを求めるという倒錯的なことだけは言いたくないと思うわけだから、やっぱり小説は面白いと読んでいる側としてみれば嬉しいことこの上ないわけで、たしかに「それでいいじゃない」という言葉は人によっては一番苛立たしく感じることだろうとわかっているけれど、でもやっぱり面白ければそれでいいじゃないとつい口にしてしまう。
えーっとですね。
何故僕が「儀礼的無関心」について退屈に感じているかということを改めて書くとすると、2点ぐらいあって、インターネットという媒介を通じて人がコミュニケーションすることについての分析が乏しくて、その代わりに幾度と無く「現実とインターネットも同じだ」と連呼されるような文章だと言うことがひとつ。それはちょっとした逃げだと思う。
もうひとつは、公共性というものがあるとして、それを守るために多くの人の自由を奪うことが果たして公共性というものを守ることと言えるのか、という疑問をさほど強く感じていない様子というあたり。僕は政治哲学とか詳しくないけれど、「無関心」ということは他人の行為に対して干渉を行わない(自由を保とうとした)結果を指しているはずだ。であるのならば、その無関心によって保たれていたもの(自由など)が危機にさらされた時に、ひとは無関心を放り捨てて他人に干渉を行う人間に対して「無関心になりなさい」という奇妙な干渉を行うことになる。そういうことに無自覚というか、そのことに対して多くを語らないのが「賭け」が無くて退屈。後出しジャンケンなら誰でも勝てる。
まあ僕は逐一追いかけていったら無駄足を踏むだけだと思っていて、奇妙な話、この議論に関心がないように大勢が装えば、議論を始めた人間が結論までなにから何まで逐一説明してくれると思われます。書き手が読み手の反応に応じたように進行する議論と文章なので、誰も反応さえしなければ、たった一人で問いを立て、問いに答えていらっしゃるように思われます。誰かしらの質問に対して、応答するように文章を書かれることも無くなるでしょう。果たして応答なき後に残った文章がどれだけの内実かを見定めることは、時間や精神の余裕のない人間には当然の権利ではないでしょうか。
冷たく聞こえるかもしれませんが、僕はそのように思っております。
もっとも言葉を使い回す愉しさがあるから愉しめばいいのかなあ、なんて思ったりもするんですけどね。この議論に対しては無関心ではなくて、しっかりと社会学や政治哲学や倫理学を踏まえた議論を日々行おうとしている人が、それなりに苛立つ内容であることではないかなと思います。少なくとも読み手を翻弄する意識ばかりが見え隠れするように見えてしまうのは余り格好が良くない気がします。しっかりと隠してくださらないと、こちらとしても困ってしまいます。
それでは、独り言はこれで締めさせて頂きます。勝手に語り始め勝手に語り終えてしまいますが、ご容赦ください。
いまメールが送受信できないことに気づきました。みなさま明日か明々後日ぐらいまでにはお送りしますのでしばしお待ちくださるよう、お願い申し上げます。
うわあやべえ久しぶりに固有名詞間違えてた。平均気温が下がると誤記するケースが増えるのはここ数年でわかっているので注意したい。
二輪車の後部座席に鉄パイプ、金属バット等を正当な理由もなく持った者を乗せること。(罰金5万円以下、反則金6千円)
例年通り今年肯定したものを挙げる。
そろそろ今年の総括をしなくてはならない。
こんなに安易な80年代回帰は許されて良いのかと不安になるほどで、ちかぢかティーアズ・フォー・フィアーズが復活するという噂も聞いた。80年代回帰と呼ばれる現象は世界的に生じている。それは単に80年代に青春を過ごしたひとびとがメディアで発言力を持つようになったと言うこと。それに尽きるんだろう。だから来年は「悪い80年代」と「良い80年代」、「本当の80年代」と「虚構の80年代」を巡ってひとはああでもなくこうでもなく語り継ぐようになるだろう。と適当な予想を立てておく。こういうのは当たってナンボはずれたって痛くないので書いておく。人生はギャンブルだ。
書きたきことは山々あれど寒が強く手も覚束無い。書籍を整理して段ボール一箱ないし半分ほど古書店に売り払うこととする。手放すことが勿体ない気持ちより誰かに手渡した方が役に立つと感じる書籍多し。
夕刻何うしても手許に置いておきたい書籍を求め、都内の大型書店へ。望みの品ありその場で買う。同じ階にてサブカルの帝王が訪れるを見る。しばし買い物を眺める。どうやら近くあの三冊の書籍が連載で名が挙げられるのだなと思いながら帰宅。
自室にて、買ったばかりの恩師の寄稿したる文芸誌と秋山駿の文集や美術書などを広げ楽しみつつも書籍整理がまた一歩遠ざかったことに気づく。明日片を付けたい。さっさと寝ることとする。
ネットでの儀礼的無関心うんぬんの議論が盛り上がっているのが正直よくわからない。この場合での「ネットでの儀礼的無関心」というのは、あるひとが文章を書いているんだけど、そのひとの知力体力時の運を測って考えると、リンクを張って多くの人に見られたときに持ちこたえられるかなあ、という時にリンクを張らない、詳しく言及しない、ということなんだそうだ。
たとえば僕は物書きじゃないので気軽に人の悪口を書けるけれど、物書きの人はそうじゃないはずだ。それぐらい僕だってわかっている。そして偉い人が失敗しているのをしっていても、そういうことを力関係その他により面と向かって(Webの世界で)書くことが困難なことだってわかっている。つまり、この場合では文章を書いたことで書いた本人に直截反応があることを知っているのに、そのことが議論の前提から外されている。また、そういう反応が生じてしまうことがないと思っていても、他人の関心というのは本人の関心とは無関係に生じるし、また反応は時と場所から関係なく起こってしまうということも見捨てられている。っていうのが問題なのだと、ひとまず書いておく。
けれども社会学に一礼をするなら、この場合だったら既にインターネットが n × n のコミュニケーションメディアだと論じた宮台真司や、場所性の喪失に関する近年の議論とか、鈴木謙介さんがかつてどこかで書いたようにギデンズの時と空間に関する議論を触れるべきだと思う。つまるところ僕がこの議論を退屈と感じる原因は、媒介としてインターネットについての考察が乏しいこと。「儀礼的無関心」が直截相手の顔を確認できる場所(という媒介)ならば、顔が見えない同士をつなぐインターネットという媒介に関する議論が乏しいため、「他人に対する思いやりが足りない」という道徳論的な議論に終始してしまう。ちなみに「儀礼的無関心」に関するトピックを書いた人は、ネット上のコミュニケーションについてはアーキテクチャーのレベルでほとんど語ることができると書いている。ならそれを最初に書けば良いのに。以上。
法政大学出版の今月の新刊、テスト配本状態なんだろうか。滅茶苦茶手に入りづらい。三省堂神田本店でも在庫はないようだし、新宿紀伊国屋にもなかったような。ABCには本すら回ってこなかったみたいだ。困る。
片岡義男『日本語の外へ』が古本屋に出てたので買った。パラパラパラーッと読んだところ、僕の大嫌いな片岡義男はこのころに開花したのだとわかった。片岡義男は『ロンサム・カウボーイ』とかが大好きだから責めたくはない。もちろん彼は昔から緑色革命的な文章を書いたりはしてたとは思うんだけど、最近の先見日記での連載とかって「日本型のシステムは破綻をしたのだ!」としか言っていなくて、その先の展望が何もない。
あなたはなにを先見しているのだ、と幼なじみや知り合いの人に愚痴っていたんだけれど、そういう「あなたはいろいろ言っているけれども日本というシステムを改善できなかったじゃない」という批判を意識せぬまま進行する片岡義男の最近の社会評論は僕はちっとも面白くないし、刺激的じゃない。
彼は近年の社会評論に限っては「日本はアカン」ということを反復して主張し続けているだけだと思う。そんなわけで『日本語の外へ』は、あれだけ分厚い本だけれども僕には認められない本となった。いや、あの本にでてくるハルバースタムというひとの挿話とかは面白いんだ。邦訳されただけでも2冊も大リーグに関する本を出版していて、自分がベトナム戦争の取材でアメリカ本国から離れているころのヤンキースについても本をまとめてしまうぐらいヤンキース狂(ないしは野球狂)のハルバースタムの話は僕には面白い。でも、そこから彼が導き出す理屈は極めて弱い。なんと言ったら良いのかわからないぐらい困ってしまう。『エルヴィスから始まった』が大事な本になっている僕としては、こんなことを書くのが辛いぐらいだ。ええと、具体的に弱い点は後日書きたい。
おおーい、こっちです。ここですよ。ああ、ここでしたか、見失っていましたよ、ずいぶんお待たせしたでしょう。いやいや、何を仰いますやら。額に汗をかいて、そんなに急がなくてもよろしかったのに。いえいえ。それじゃあ駆けつけ一杯。どうもどうも。ああ、ようやく息が吐けます。最近はお忙しいんですか。いやいや、そんなでもないんですけど、でもやっぱり忙しいですね。それじゃあ、やっぱり忙しいんですね。そうですね、忙しいというか面倒なんですね。面倒なんですか。面倒というのは言葉がおかしいのかもしれないんですけど、結構大変なんですよ。大変なんですか。それじゃあ大変ですね。ええ大変ですよ。
僕の後輩Kiss→Cくんが「萌えと言う言葉は"boom boom"が近い」と海外帰りのひとに言われたらしい。いくらなんでも、それはちゃうやろ、とKiss→Cくんみたいに関西弁で喋りたい。
いろいろと書きたいことある。時間がない。手短に。
ちなみに僕に売ってくれたオジさんだと思うんだけど、ラジオの取材に答えたらしい。東京進出第一号ということもあって、今日は六十部売れたんだそうだ。一冊の上がりが110円なので、今日一日で合計6600円の収益だ。一日中立っているのは辛いけれど、バイト(であり自立の第一歩)として成立するギリギリのところだと思う。
ところでホームレスのひとのための簡易宿舎というのは一晩1500円らしい。それで今日は屋根の下でお休みになるんですか、と取材者が尋ねると、いやあ今日は野宿だよと答えたんだそうだ。なかなか難しいなあ。きっと雨の日に泊まることができるようにお金を貯めているんだと思うんだけど。
うーん、そうだなあ、shikiさんはカンタン系を「ワレワレのゼネレーションの突端の一つ」などと呼ぶより、蔓葉さんの文章を読んで欲しいなあと思った。っていうか、ミステリについて僕は無頓着で、「退職刑事」の一篇を面白いなあと思ってもホックのホーソンは認められん、みたいなかんじ。この「かんじ」というのがポイントで僕がいかに好い加減であるかを示している(居直り)。うん。適当に行き当たりばったりで読むので体系立てられてないので細かいことは書かないけれど、児玉清に逆らってでもホック批判を誰かが書くべきだと思った。僕のために。読んでて眠たくなったのは僕ぐらいのものなんだろうけど。
いや、本当は「これで企業イメージもアップですよ!」ぐらいのことを言って、広告やパトロンに優良企業を呼び込むことが一番大事だとは思うんだけどね。
村上龍という作家はトレンドをしっかりと追いかける作家だ。それが良いのか悪いのかは置いといて、そういう作家だと思う。その結果が90年代に書かれ続けた倫理的な小説で、彼は文学というものが世間にメッセージを伝える道具として機能することを証明しようとしていた、みたいな解釈が可能なんだと思う。とここまで書いておいて何だけど、僕は数作品ぐらいしか村上龍を読んでない。小説のタイトルだって思い出せない。
ただ、90年代末以降の村上龍は僕にとって「倫理的」な作家というより成金を体現していた人が倹約を問うという卓越した「笑い」を表現する人になっていったのは確実。『あの金で何が買えたか』は自分でも不思議なのだけれど笑いが止まらない本だった。
そしてただいま発売されている『13歳のハローワーク』は、どうやら『あの金で何が買えたか』に迫っているんではないかと何とも奇妙な胸騒ぎを感じる。この面白さに匹敵できるのは、ドラマだけでなく絵本ですら登場人物を殺してしまえば物語に落ちを付けることが可能だと信じ切っている野島伸司ぐらいではないかというのが、僕の実感。根拠は全くないんだけど。
疲れに疲れる。疲労から落ち込みだして立ち直れなそうな。
なんとなく稲葉振一郎さんの文章を読んでいたら、読むのを諦めてしまっていた『生態史観と唯物史観』を読みたくなってきた。もちろん、それは終わってしまった議論を再検討するというか、そこでは何が問われていたか確認するようなことなのかもしれないけれど。うーん、読みたいと唐突に思ったことの説明になっていない。
寒い。凍てついてしまうようだ。
家族で靴下用カイロを買い込んだりすることで評判な我が一家にはつらい時期だ。まだカイロを貼らずに済むのが唐突に台風が訪れる今年のありがたさだとつくづく思う。
私は逃れ、すべての窓にしがみつく、そこから人生に肩を向け、無限の貞潔な朝が金色に彩る永遠の露に洗われた、その窓ガラスに映る、寿がれた私の姿を見つめ、私が天使なのを見る。
――高田博厚によるマラルメ抄訳
「CODE/コモンズ/ソフトウェア」特集。文章の半分はジャーナリスティックで興味深く読め、半分は慣れない分野を扱っているためか妙に浮ついた文章に読めてしまう。
さすがあの『サイバー経済学』の著者だけあって小島寛之さんの文章は、「コモンズ」という概念が経済学で着目された経緯が記されていたりして、面白かった(宇沢弘文の環境学的な側面は僕は評価する力と知識がないので保留してしまうけど)。
デカルト研究者・小泉義之は、人間の持つ機械的な側面が拡張されていくことを説明していて、僕は面白く読めそうな気がした。ただ、明らかに彼の文章は文体があの悪しき「ポストモダンに憧れちゃってしまって」な文体に揺り戻しが起こっている。80年代回帰した奇妙な文体で現在の事例を説明されても納得がいかない。そういう文章。予兆を触れることで終わってしまうという悪循環に小泉さんは最近はまっているのではないか。そんな風に思う。
北田暁大さんの文章は、困った。この特集はいわばレッシグ特集だ。それでレッシグがサイバー空間を論じるのに提示した枠組み。ブラウザなどから見える側面・プログラムのコードの側面・物理的な側面、に分類する手法は、たしかキットラーがラカンを援用して近代の言説空間を考えていたことに似ていたと思う(ラカンだと、目に見えるもの=想像界で、見えないもの・コード=象徴界で、物理的な影響力=現実界と当てはめることは無理があるかもしれないけど可能だし、キットラーはそうしてたんじゃないかと思った)。
だから、そういう議論をするのかと思いきや、ピンクフロイドという伝説的なロックバンドについてキットラーが書いた文章を一度迂回している。その迂回がイマイチ僕には理解できないので困ってしまった。そのキットラーの文章というのは、狂気に囚われ音楽活動を一切行えなくなっていた初代リーダーのシド=バレットがアルバム「狂気」のミキシングを行っていたようにキットラーが文章を書いていることから成立している文章なんだ。
でも、僕はキットラーの文章を読んでいないにしても、それはシド=バレットが突如姿を現したたために、メンバー全員が混乱に陥った「あなたがここにいてほしい」の録音における神話的エピソードをキットラーが「狂気」の録音と勘違いしたんじゃないかなあ、とすこし思うのだった。
部屋片づけをしているうちにおかしくなる。疲れた。まだ片づけ終わっていない。『細雪』を1セット重複して所有していることに気づく。読んでいない本を残しておくと、たまにこういう目に遭う。情けない。欲しくてカンタン系のfairaが誰かなど知っている、さあ呼び出してやろう、というひとはメールでもください。って、そういうひとに限って『細雪』ぐらい読んでいるんだよなあ。
『エコノミスト・ミシュラン』(太田書店)を山形浩生さんが朝日新聞で書評。リフレ派についてまとまった説明をしているところがポイントなんだと思います。経済論争に興味を持ち始めた人たちには、リフレ派と言われてもどういう立場なのか不明確だけれども、『エコノミスト・ミシュラン』ではリフレ派に関する説明はばらけている気がするので。
金井美恵子さんの新刊はタイトルがすごい。
『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』。
恐ろしいことで信じたくないのだけれど、僕の部屋の照明器具一式が壊れる。これからの冬の夜長をどうしろと。
疲れてるんですよ、これでも。いつまでも同じことを続けているわけにはいかないとも思う。どうにかしないと。
もしかしたら、僕の焦る横顔を見られたんだろうか。だとしたら、なっさけないなー。さいきんはいろいろとテンパってるから、そういう表情ばっかりなんだろうけど。
寒い。今日は外を出た。僕は方向音痴が酷くて、道に迷う。よく迷う。入り口と出口、右手と左手の区別が付かなくなるぐらいに酷い。今日も来た道を戻れなくて困っていて、だれかに見られてはいないか気づかれてはいないかと不安を覚えていたら、何を行ったり来たりしているのだろうと幾人かのひとに感づかれて、正直うわーどうしようと思った。
寒くて動けない。どうしよう。カイロ。カイロ。
あーもう特に何も書きたくないなー。
文学の世界はすげえ狭いので、カンタンにキャリアリズムみたいな話になると思うのだけれど、ここは埴谷雄高みたいに、むだに話を大きくして丸山真男と23世紀の政治の在り方を語るように語りたくなる瞬間がある。と書いた途端に改めて気づくけど、埴谷雄高はファンキーだなあ。
きょう会社の先輩にノーベル文学賞に最短の日本人作家って誰?と尋ねられて困ったんだけど、昔は良くも悪くもこういうファンキーな人はいたけど、いまいないなー。大江健三郎が相対的にというか、絶大的にファンキーなのはわかる。高橋源一郎は小説を書いているときで、なおかつ本人が自分自身の悪ノリに呑み込まれているときはファンキーだ。書評を書いているときの彼は本当に手を抜いている。とある雑誌がかつてすっぱ抜いたように、紋切り型のパッチワークになっている(という書き方は極めて穏便)。あと村上春樹も実は意外にファンキーではあるけれど、同世代では高橋源一郎よりはファンキーじゃない。島田雅彦はそれほどじゃあない気がして、確実に福田和也もそれほどでもない。金井美恵子はファンキーじゃないけれど、大江健三郎を除いたここに名前を挙げたひとたちよりとても面白い。そして矢作俊彦はファンキーで、それこそ80年代に多くの若手現代小説家たちが諸手をあげて『気分はもう戦争』に降参していた。のだけれど、それはともかく何故当時のひとたちは矢作俊彦×大友克洋のコンビを「大友克彦」と呼んでいたのだろう。もしかしたら当時は「大友克彦」のペンネームで活動していたんだろうか。これは7年越し悩んでいることなんだけれど。
『植草甚一コラージュ日記 2 ニューヨーク1974』を買う。これで1300円は安いよなあ。つくづくそう感じる。J・Jこと植草甚一によるニューヨーク地図なんてのが掲載されていて、本当面白い。胃の手術後の植草甚一は本当に洒落た爺さんという被写体になりきっていて、それがまたすごい。奥さんとのツーショットの写真があって、これもまた良い。幸せそうな表情。
ビッグイシュー日本版を買う。ビッグイシュー、根付くと良いなあ。
そして誰かが書いておかないと面白くないから僕が書いてしまうけれど、この雑誌が日本の音楽雑誌から注目を浴びるようになったことがあった。それは、ストーンローゼズというロックバンドが解散するかしないか、という騒動の中だったはずだ。ストーンローゼズというバンドはロックとダンスを融合したのだ、とか、ドラッグ華やかりしセカンド・サマー・オブ・ラブという時代の寵児だった、とか、音楽をアーティストからオーディエンスのものへと移行させた、とか、何だか良くわからないものの「とにかくすごそう」の代名詞だった。もっとも彼らはバンドを解散させるまでにアルバムを2枚しか出していない。
とつくづく自分の弱さを身にしみて感じながら、「SPECIAL THANKS」のコーナーを見た。ここにはパトロンになった団体や個人の名前が掲載される(匿名にするの可能みたいだ)。協力定期購読者も同じように名前が掲載される。そして僕は驚いたのだけれど、パトロン(1口5万円)に日本優生学史研究には欠かせない米本昌平さんの名前があったのだ。もしかしたら同姓同名の同一人物じゃないかとも考えたんだけど、きっと本人じゃないかと思う。思わずうなってしまった。
もうなんだか、積ん読がえらいことになっているので、いっそのことハーレクイン小説に逃避したくなってきた。
はてなダイアリー有料化オプションが発表。面白そうなのと以前寄付をするために購入したポイントの端数があったので、オプションを申し込む。しかしオプションを殆ど利用していない。うーん。
ちなみに、保育の拡充を提案した瀬地山角の『お笑いジェンダー論』は昔立ち読みしたことを思い出す。瀬地山角をみらい子さんのホームページで名前を知ったのだけれど、僕は著者を女性と思いこんでいたのだった。ペンネームだと思ってたんだよなあ。懐かしい。那須雪江のマンガの素晴らしさを思い出すようだ(完全なノスタルジー)。
さいきん現代日本で最も効率の良いコミュニケーションツールはハム無線ではないか、と諭され悟り諭しているfairaです。どうも。
僕が全面的に肯定できないのは、著者たちが読者と共有していると期待していた知識が実は食い違っていたことが原因だと思う。
太田出版という出版社は、かつて「批評空間」というマニアックな雑誌を作っていた実績があるので、こういう本を作ることには実はノウハウが詰まっているのだと思う。でもそのノウハウが仇となって、今回僕が冴えていないと思うのは、まず本が縦書きではないということ。横書きにしているので、MBAの教科書とかに関心がない人にはこの体裁は辛いと思う。特に年齢が上がれば上がるほど読書が辛くなるだろう。そして「文壇」とか「論壇」といったせせこましい世界に関心がある(が故に文字面に執着の強い)人ではなくて、現状の社会に関心があるひと向けではなくなって、経済系の「論壇」好みのひと向けにしまったこと(経済学のことを知らない僕だって文面から了解できる)。これらが惜しまれると思う。
それでも、敢えてフォローをすると、野口旭さんが「構造改革をしたい」という欲求を分析した文章はとても面白い。拝聴するに値する。WebでならHotWiredの連載にあるので、まだ読んでいないひとには読んで欲しい。
これは僕にとっても重い文章だ。何故なら、文章の頭の方で評価をされながらも肯定されない丸山真男の市民主義的な考え方っていうのは、僕が研究対象にしている村上春樹にも及んでいるイデオロギーだからだ。『ねじまき鳥クロニクル』という小説は、ノモンハンでの日本軍の敗戦を取り扱っていて、そこでは如何に「無責任の体系」が存在していたか語られもするのだ。村上春樹すら90年代に著した作品で逃れきれずにいることを証してしまった市民主義って一体何だったのか。そして、それは今どのような影響を及ぼしているのか。そういったことを手がかりにしてから、経済政策について論戦が熱く語られている著書について読むと面白いんじゃないんだろうか。というか、僕は必死にそうやって読もうとしている(ところで、こういう経済学以外の話題に上手に話を結べないのが、この本の問題点だったりもする)。
そういえば、中村光夫の『日本の近代小説』は、とても良い本で、これぐらいは日本文学科で近代ないし現代文学を学ぼうとしている人は読んでもらわないと、という本。僕は、この本に出てくる小説を全部読んだ試しはないし、納得がいかないと言うか違和感のあるところだってある。忘れちゃったところも多い。ともかく、高校生のひとたちが読んだことがある国語便覧みたいな本にある日本文学史はこのひとの考えた日本文学史が影響していることが大きい。そういう良くも悪くもすごい本。
図書を返却。その後ちいとばかし戦後日本の文芸批評を再読。ひどく懐かしい。中村光夫の文章に蓮実重彦が好んだ言葉を見つけ出す。陽が落ちかけていたので図書館を出る。肉まんが発売されているような時期になっていたので1つ買って頬張る。僕が浪人生のころには8月にフライング販売されていたりしたけれど、もうそういう血迷った風景は見受けられないな。帰り道のブックオフで五木寛之『風に吹かれて』を立ち読み。いろいろ考えるものの、結局このころの作家までが持っていた余技を継承できなくなったのが今の作家だということは認めざるを得ず。古本屋店主との駆け引きを書いた「古本名勝負物語」が面白い。古本の価格を勝手に書き直して適正価格と言い張った植草甚一のエピソードと同じくらい面白い(あ、エッセイの面白さだったら中原昌也がいたか)。
いったん寝たのにおなかが減って起きたのがいけなかった。ついネットサーフィンしてしまったなあ。まあいいさ。明日は運が良いことに祝日だし。
僕は京都の古本屋と中部地方の古本屋に詳しくなりたい。知り合いの人が「今度は関西だ!」と言っているのを聴くと羨ましいやら。でも、これ以上買ってもろくなことにならないかも。
いま、特定の人物が「コロナちゃん、萌えー」と言っている(か文章にしている)のをすぐさま想像してしまった。おそろしい世の中だ(てきとう)。
寒いので今日はこれくらいで。
ウィスキーでも身体に入れないと何にもできなくなってしまいそう。あああ。冬が始まってしまった。
冬服を買いに行く。帰り道ちょっと古書店に立ち寄ってルフェーブルと成瀬修の本を買う。こういう遠回りも必要かな。あ、コクトーの『声/怖るべき親たち』が100円で手に入ったのだった。これはラッキー。コクトー主義者の幼なじみに見せつけてやろう。彼の大好きな戯曲「オルフェ」が収められている。
「ファウスト」という若い人向けの文芸誌みたいな雑誌があって、この本の新人賞は1980年生まれからじゃないと投稿できなかった。それより年上の人たちは投稿しても受け付けられなかった。それで僕は、じゃあ僕と同年代かそれ以上年上の人たちは投稿できないんだなあ、と文章を書いた。
原田真人の映画評論集を買った。連載中に彼がこの映画監督(ないしは俳優)は将来有望株だと宣言した人間がパーセンテージで測れば、かなりの確率で「はずれ」になっているのがすごい。敗戦の歴史を僕は読んでいるようだ。だいたい「はずれ」って本人が脚注で付け加えている言葉であるし。
こういう共通の話題を暗黙の裡に前提にすることができたのが、今よりももっと「文壇」というものに存在感があった時代の文章らしい。そんなことも感じるけれども、同時にピンカーの『心の仕組み』を読んでいるときに注釈がない不便さに似てしまいやしないか。なんてことも考える。だって、『畏怖する人間』P.14で観念史家ラヴジョイの考えを引いてきてるんだけど、これはきっと今年になって『観念の歴史』として発売された本の中に収まっていそうな気がする(→書架から『観念の歴史』を引っ張ってきたら「著者序」P.ix-xに同趣旨の文章が存在することを確認)。でも、そういう情報は切り落とされているんで、読んでいる方としては辛い。
原田真人が「POPEYE」に連載したコラムをまとめた本を昨日深夜に発見したので買いに行こうと思う。というか、昨日レジに持っていくときに忘れてたんだよなあ。あのとき買っていりゃ良かった。
僕は阿部和重を読まなければ舞城王太郎は語れないとか、そういうプレッシャーを掛ける気はあんまりない。
でもさー阿部和重は『無情の世界』前後から、小説の水準を保ちながら間口を広げるという挑戦をしていて、それもそれなりに成功してる(というか僕が面白く読めている)ので、阿部和重についてはそれなりに語ってしまうよなあと思った。というか、そうやって間口を広げる上での阿部和重の手法が、それ以後の作家にも間接的に影響を与えているようなところはあるんだろうけど。
今日買った『エコノミスト・ミシュラン』と角川文庫から発売されたばかりの三浦しをんさんの『ロマンス小説の七日間』について書こうと思ったんだけど、どうもスタミナが保たなそう。あらすじしか読んでないけれど、『ロマンス小説の七日間』って当世風に女性がロッジみたいに書いた小説じゃないかって、とても期待している。
ところで、この本を読んでいて思うのは、文学の世界の言葉が時として狭いサークルを作り上げてしまうような現象がこの本の中で現れてしまっている気がすること。時としてマニアックな方向へ横道へずれすぎるときがあって、ちょっと不安。でも、大学生とかこれから大学生になる人とかは読んだ方が良いんだと思う。
この本の編者たちの主張したいことは、僕が経済のことを何も知らない人間として乱暴な要約をすれば、構造改革をするにしたって余力がないのにやったら倒れてそのままになってしまう、ということだと思う。もちろん、僕なんかと違って、経済学をきちんと学んだ方たちが説明しているのでためになる。洗練されている。細かい話もしている。それから、さいきん、そういう「余力があるのか?ないのか?」という議論が減っていき、「構造改革はうまくいっているのか?」としか問われていないことの問題があるので、バランスを取るのに読むってのもありだと思う。。この本で批判されている金子勝だって、「構造改革したら金がなくなる」的なメッセージをひとびとに送っている。それでも、みんなどうして構造改革をしたいと思っている。しかしそれはどうしてなのだろう、という謎解きも少ししている(ここが実は僕が読み込みやすかったところ。きっとサーヴィスというか野口旭さんが取っつきやすい入り口として用意したんだと思う)。興味のある方は立ち読みしたらどうでしょう。面白いから。HotWiredに連載されている野口旭さんの文章を読んでみるのも良いと思う。っていうふうに、文系中の文系で、カート=ヴォネガット曰く教育学部と同じくらい必要がなさそうな文学部日本文学科に在籍しているか、その近辺にいるひとが読者として僕のサイトに多そうな気がしたので、勧誘してみた。
saromasanさんの日記に何度か登場した「子犬本」って何なんだろうと思ってたんだけど、今日判明!宝島社から出版されてた『子犬に語る社会学・入門』だった。これで今日は子犬記念日!絶対あり得ねええええ。
とある「業界人的日記のように読めて実際の所わけがわからないのでいろんな意味で意味がわからない」日記の中で、「故・宇野邦一」とあって、えーえーえーえええええ!!!と思って、慌てて検索。どうやらご本人はご存命のようで、今月23日に詩人瀬尾育生との対談が催されるようだった。一安心。というか、勝手に物故させてはいけません。一瞬「豊崎光一みたいに、ドゥルーズ翻訳者って学者としては短命なのかなあ」と暗い気持ちになったので、本当に止めて頂きたい。いやはや。
インターネットとは関係のないところで、すこし悩んだり落ち込んだりすることがあって、ちょっと気がふさぎ込む。漠とした不安みたいなものとか、まだこういうところが至らないな、とか思ったり。
2003/11/15(Sat)のその2に書いたことで、東浩紀さんが「ポストモダンでは文学は死んだ」と発言したという噂があるということを書いてしまったら、東さんご本人からはてなダイアリーの方に書き込みがありました。
そういえば、僕は、東さんに非難のメールを送った本人と思われて文学フリマで話しかけられたことがありました。もちろん、僕は東さんがホームページを公開しているのを見て愉しんで、それから1年ぐらいしてからホームページを開設したので、東さんにメールを送った人間の条件を満たしていないのです。それでも、そういうことを言われるのは、やっぱり僕が時として東さんに批判的な文章を書いたことが原因だと思うので、ある面でそういう風に噂されてしまう原因を背負わなくちゃいけないのかなとも思いもするのですが、やはり奇妙としか言いようがありません。取りあえず、あのメールを書いたのは僕ではないのです。
昨日の続き。僕は観劇を終えて横浜駅周辺をぷらりぷらり歩いた後お茶の水に向かった。
その張り紙の真横には弁護士が貼り付けたと思われる「債権者の方々へ」という文面の紙がある。おそらく借金か何かを返済できなかったんだろう。その古書店で本を買ったことは数回あった程度だけれど哀しい。この風景を見て不思議な既視感に襲われた。それは岩田宏の代表作「神田神保町」に似通った光景だったからかもしれない。
神保町の
事務所の二階の
曇りガラスのなかで
四十五才の社長が
五十四才の高利貸と
せわしなくはなしている
番茶はいっそう水くさくなり
ふたりはたがいに腹をさぐって
茶より黄色い胃液を飲みほす
何が悔しいって、僕が好きな本や買い損ねた本を紹介していることだ。それもそういった本を誰よりも愛おしんでいることが手に取るようにわかるので、文句の付けようがないくらい面白いし、感じ入ってしまう。
たとえば、鮎川信夫の死を冒頭に据えることでショッキングだった河原晋也『幽霊船長』を紹介されていると、僕が古書店で発見したときに鮎川主義者の幼なじみに連絡をとっている間に買われてしまったことを悔しさをつい最近のことのように思い出してしまう。しかも所謂奇書稀覯書に関する表面を撫でるような紹介ではなくて、鮎川信夫という詩人について長さのある文章が、これがまたとても心に残る文章なので、幸福な気分になれるやら(その本を手に入れ損ねたことを)悔しいやら何とも言えなくなってしまう。
僕は昨年このホームページのトップページに、白鳥の文章を飾っていた。たしか『今年の秋』に収められた文章から引用した。あれはやっぱり僕が何とも行き詰まるというか落ち込んでいたからだったのだろうと、今になって思う。
こういう白鳥の考え方をニヒリズムと言ってしまえるのかもしれない。白鳥は戦後それまでの読者が反応しづらい「日本脱出」といった作品を書いていたと思う。それからか、そのころだったか。『楢山節考』でデビューした深沢七郎に師事される。
白鳥と深沢七郎は遠いようで近いところがある。それはやっぱり「今やってることも意味がないかもなあ」とふと感じてしまうところにあると思う。『借家と古本』の中で荻原魚雷さんが引用して面白い部分を紹介しているので、是非とも読んでもらいたい。
僕が好きなのは、講演原稿だと思われる「文学生活の六十年」にあるこんな文章。
こんなことをここであなたがたにおしゃべりして、あなた方になんの足しにもならないで、ただいたずらなことなんだけれども、あなた方もよくときどきは夜中に目が覚めたときに、自分の今日の生活を考えて、それに対してなんか耐えがたい不安を感じられることもあるんじゃないかと空想しておるんです。(中略)この人生も何千年、何万年を経たんだから、人類というものが優れたなにをもって生まれたものなら、そこへ入るときがいつの世にかはくるんじゃないかと思う。
それが、僕らが微力に生きているあいだに、得られるものかどうかということに対して、いつも懐疑の念におそわれておるありさまで、こんなつまらんことを言って、聞かせがいのないこと、聞きがいのないことだったんですけれども、頼まれたんで仕方なしにお話ししました。
この奇妙に気の抜けたカンジが好きで、肩肘を張っているか張らなくちゃいけなくなったときに僕は白鳥を読んですこし落ち着くことにしている。何度と無く白鳥と応戦を繰り返した小林秀雄が晩年に白鳥を讃えたのも、理由無いことではなくて、日本文学における切ったはったのロールモデルを作り上げたこの批評家の最後に息を抜いた瞬間が訪れたのではないかと僕は思っている。
ところで、「なぎさにゆこう」の作品『恋と自分/とんかつ屋』は映像化されていて、その撮影では阿部和重『シンセミア』の表紙の写真を担当された方が協力しているそうだ。今日会場でそのビデオが販売されていたので、不見転で買おうと思ったのだけれど、ビデオデッキが壊れて廃品回収に出したばっかりだったので買うのは躊躇われた。けど、今更になって買わなかったことを後悔している。後悔先に立たずって本当だなあ。とつくづく思う。2500円ぐらいなら財布にあったのに。ていうか、このままだとアルドリッチの「キッスで殺せ」を録画したのに見られない状態に!
queequegさんの参加している劇団チェルフィッチュの新作「マリファナの害について」を観に行った。
作品はなんと言ったらよいか、女性(というか役的には女の子?)が一人で喋り続けるもので、内容そのものを明かさずにギリギリのところで説明すると、女の子の語る時制と人称がバラバラになっていく過程がとても面白い作品だと思う。ただ、ちょっと癖のある手法だと思うので、苦手な人は苦手らしく、僕の隣のお爺さんはけったいなものを眺めている顔をしていた。うーん。
産業としてエロゲーが縮小の時期を迎えつつあるのに、新たに生産される作品で模倣され参照され参考にされるのが自分たちの業界(エロゲー業界近辺)の文化だから、作品から年々活気が失われて縮小再生産に陥っている気がする。そういう話を僕は聞いたのだった。
ちなみに、これはエロゲーに限って言えば、極めて避けがたい現実だと思う。というのも、エロゲーというのはキャラクターに「萌え」とか言う人たちを商売にしている。「萌え」というのは、記号に対する特別な感情だ。記号に対する感情というのは、記号と類縁関係、つまり似通った記号に対する感性が研ぎ澄まされることだ。だから、こういった感情を持つ人には、ひとつ成功した記号があれば、その記号の類似品(模造品といった劣化したイメージで考えなくても良いと思う)が流通する。その流通で商売が成立していると思うので、縮小再生産のタイミングでは、おそらく市場の拡大というよりは縮小をもたらしてしまう記号を再生産してしまいがちだろう。けれども、そうやって記号を再生産しつづけることで産業が継続されるんだから、否定しづらいとも思う。
詳しいことはあとでじっくりかきたいのだけれど、今日は良い一日だった。どれだけの人に理解してもらえるかわからないけれど、去年の今頃からずーっとエネルギーを外に向けて放出していた気がするのが、今日になって充填されたのだ。良い物に巡り会うと人間元気になれる。取りあえず僕の手許には安岡章太郎『安岡章太郎集 8』がある。この本には『流離譚』上が収められている。僕の手許にあるこの本には安岡章太郎のサインがある。これがまた格好良い。
これから横浜に向かう。それにしても横浜に行くのは、浪人時代目録買いした商品の引き取りに出かけた時以来だ。思えば僕の古本的日常は、あのころの方がエキサイトしていた。バースの『金曜日の本』が古本価格にして500円だったころの時代だ。『やぎ少年ジャイルス』読みたいなあ。『酔いどれ草の仲買人』は退屈になって読むのを止めたのだけれど、今だったら面白いんだろうか。ナサニエル=ウェストが読みたい。
queequegさんの参加している劇団チェルフィッチュが明日明後日の土曜日日曜日に公演するそうなので行きたいと思ったら、そういえば予定が入っていたような気がするので現在メモ帳などを捲り引っ張りながら何が予定だったのかを思い出すのに必死。
『クリエイション・レコーズ物語』(太田出版)を立ち読みしてきた。どうも物足りない気がする。それはどうしてだろうと考えたら、僕は訳者である伊藤英嗣の文章をもっと読みたいのだと気づいた。アラン=マッギーなどのインタビューと同じくらいに、この訳者にとってのクリエイション・レコーズとは一体何だったのかを詳しく知りたい。本の半分が伊藤英嗣の文章だと僕は嬉しい。
マグニチュード6弱、都心では震度3の地震があった。最近は疲れていて本をよく読めない。文学フリマまで、資料にしたいと考えていた書籍を必死に読んでいたための反動か、取り立てて本を読む気力が湧かない。何とかしたく、坂口安吾『桜の森の満開の下』を読む。ようやく元気が出る。学生時代は安吾という作家は読んだら敵わない気がして読むことが苦手だったけれど、ようやく楽しさを見つけながら読み通せるようになった。
それを甘えと言うことは理解できるし共感できるけれど、そう口にしてしまったらそれでお仕舞いというか、問題にしようとしていたことを隠蔽してしまうような気がする。そこで甘えを許さない父親を復権させようとすることは、実は父権的な父親として振る舞えないし、父権的な父親を求めずにはいられない「甘え」が存在することを手っ取り早く隠蔽してしまうというか。
そうだ。書こうとしていたことを思い出した。
しかし、十返肇の「『文壇』崩壊論」を信じるならば「文壇」は戦後しばらくして瓦解した。「『文壇』崩壊論」は昭和31年の文章だから、「第三の新人」と呼ばれた安岡章太郎は「文壇」が崩壊していないころに「文壇」の内部に入り込んだことになる。たしか野坂昭如の『文壇』に、吉行淳之介との対談で野坂昭如が「文壇」的なものと遭遇することが書かれている、と僕は伝聞しているので、恐らく「第三の新人」あたりと浅見淵の『昭和文壇側面史』に戦前から含めて35年以上続いたことが記録されている同人雑誌「文芸首都」に所属していた中上健次、津島裕子あたりまでが「文壇」というものを知っている最後の人たちということになっているのだろう(文芸誌を読むとよくそういうことが言われている)。けれど、このひとたち以降の作家は、新人賞を受賞してからではないと作家になれなくなる。村上龍や村上春樹に高橋源一郎に島田雅彦も。
朝日新聞掲載の星占いによると、今週の僕はマンネリ気味だということなので、停滞した(と決めつけられた)現状を打破すべくハム無線の本を買った。思ったより面白い。CQ2m、CQ2m!
岩波知識人という言葉が蔑称ではなく、嶋中鵬二と福田恆存が中央公論を用いて論戦を仕掛けていった時代の批評や論争はいかなるものだったろうと、ふと思う。なんとなくそれは小熊英二が文章にしているか、そのうちにするような文章だとは思うし、日本思想史に関わることとはいえ、文芸批評は長き歴史にわたり日本思想史に強い関わりを持っていることを思い出して。そのように。
高木浩光さんの「王様に服を着せるには」という文章が気になる。
【今回の選挙の総括】
自民党税調のドン、山中貞則(82)が当選したみたいだ。おそろしい。年金政策はやっぱり変わらんのだろうか。世代間払いの構造や、25年継続支払いをしないと年金が支給されないことなどが改善されないと、これだけ人材の流動が激しい時代にはどうにもこうにも立ちゆかなくなってしまうように思うのだけれど。違うんだろうか。あと、会社に勤めている女性を見ていると、本当に保育園的な施設の拡充を行って欲しいと思う。切実。
flurryさんのとこを読んで、あ、これが知り合いの方が探してらっしゃる本かもしれないと思った。今度時間があれば調べてみようかな。面白そう。
投票を済ませた。
たとえば、筒井康隆だって「文藝」で時評を担当していた頃に、スガ秀実を「ガキ」の一言で片を付けようとした。それはまあ、縄張り争いのようにも見える。つまり、その時点で筒井康隆的な小説は純文学には受け入れられていた証拠だった。そのころの筒井康隆の作品に「カラダ記念日」といったグレードが低い(と今でも評価されていると思う)作品が多かったことが、「批評空間」サークルからの筒井康隆批判の要因だったことも忘れてはいけないと思う。
「獅子王」(→のちに「グリフォン」)や「ログアウト」、それから「SFアドベンチャー」といったSF的な作品を掲載できる雑誌が92年ぐらいまでに廃刊や休刊に追い込まれていたり、かつてほど活気が無くなっていたことだって忘れちゃいけないのだろう。SF作家として登場する舞台の場所が減っていき、「SFマガジン」ぐらいしか発表の場が無くなった。これだって大きなことだったはずだ。1983年頃、中島梓が日本SFの豊饒さを、星新一もあればハードSFもあって、そして夢枕獏だって包含していることと定義していた。けれども、そういう多様性のある時代が雑誌の減少によって不可能になったのがこの時期であるはずだからだ。
こうした状況によって90年代前半には、今でなら「萌え」と呼ばれる要素が強い作家はスニーカー文庫などに向かわざるを得なかったはずだし、サイバーパンクみたいなSFを書こうとしても、書く場所は殆ど無かったはずだ(作風を変更してミステリを書いたかもしれない)。そういう作品は今で言う「サブカル」とみなされてハードSFのファンから排除されていた。
というわけで、1990年代中葉の日本SFは、日本人の「オタク」的な作品も「サブカル」的な作品もSFが受け入れなかったはずで、それが若い作家が少数であるという問題の原因になっていた。
それこそ渡部直巳が評価したいとうせいこうの『ワールズ・エンド・ガーデン』は、エフィンジャーの『重力が衰えるとき』にインスパイアされた興味深い小説だと思う(もっとも当時は「批評空間」サークルも含めて殆どの人がそんな文脈で読むことを提示しなかったけれど)。
言葉の一人歩きというものが怖いので、いまのうちから書いておきたいことがある。
けれど、それは別段「批評空間」の問題ではなくて、「批評空間」以外の俗に「吉本派」とも称される笠井潔だって加藤典洋だって、詳細な分析をしながらも決して好意的ではない評価を下していた。大江健三郎は村上春樹に拒否的だったことは噂に留まるとは喧伝されているところであるし(彼は村上春樹ではなく青野聰をヒッピストとして評価した)、江藤淳だって好意的じゃなかったはずだ。おまけに研究者では黒古一夫がやはり村上春樹に対して批判的だ。そう、村上春樹という作家は日本文学研究者にとっては太宰治なみに好意的な評価をすることが憚れる存在だったのだ。
だいたい村上春樹に関しては研究書はしっかり数が揃っている。80年代に活躍しはじめた作家と思えないほどだ。入手も極めて簡単な方だ。村上春樹は――最近では佐藤友哉もだけれど――ある種のコミュニケーションというか派閥争いの道具というか駒として使いやすいのはわかる。けれども、そういうことはもう、できるだけ無視したいというか、終わらせたいと僕は常々感じているのだ。
『単語集』であるとか『兎』といった短編集を持っていないわけではないけれど、実は未読の短篇があるかもしれないと思って昨日買った、金井美恵子『ピクニック、その他の短篇』を読む。「家族アルバム」は融通無碍に時間を操っているけど、そんなことをおくびにも出さない。ナボコフって、こういうカンジの短篇を書いてると思う。「記憶」を上手に扱っている小説なのかもしれない。年末までに『噂の娘』を買おうかなー。流石に年末になら一冊ぐらい長編小説が読めるはずだ。
知り合いの方が「日本で真面目にフーコーをしている」と言っていた身体医文化論が再び一冊の本にまとまり、『運動+(反)成長―身体医文化論 2』という本となって出版されていた。ただ前著の『身体医文化論―感覚と欲望』と毛色が異なるな、と思っていたら、編者が異なるのだった。僕は前著の方が好み。前著を漠然と振り返ると、ドールス『バロック論』にある「解剖学と歴史」を思い出
「これからの人生航路は暗夜行路か」。
時は遙か西暦三〇〇〇年。(中略)他の国と比べると全てにおいてトップクラスであるこの王国に”佐藤”という姓を持った人口は五百万人を突破した。
DVDプレイヤーを買ったので、今までPCで必死になって見ていた『地下鉄のザジ』を3年ぶりにテレビ画面で見ています。改めてカラフルな映画と思いました。
自分の書いたものに対して、すぐさま反応を示してしまうと、馴れ合いのようになってしまうことがあるし、そもそも僕や僕の周り(というか幼なじみか)以外の評価を受けることと言ったらいいのか、他のコミュニティに属する方たちからの評価が出揃うのを本来は待つべきだと思うので、僕はそういうことをなるたけ避けたいと思っているのですが、水没クローゼットのこせけいくんに佐藤友哉『水没ピアノ』評の感想をしてもらったことは記録しておきたいと思います。
何故記録しておきたいかというと、昨日の文学フリマで「女子高生をみつけたかった!」「海城高校の男の子たちともっと話したかった」と高校生に熱い視線を注ぐお姉様方に、そうですねー海城高校の男の子たちは良い奴でしたねー、あと僕は面白いというか好感の持てそうな高校生男子の日記を知っていますよ、なんて話したのですが、それはもう話の筋からしてもちろん、こせけいさんの水没クローゼットなのです。それで、お姉様たちもすぐ閲覧できるようにリンクするためにも記録したのです。
こういう失敗(とはいえないかもしれないけれど)をしているので、「ファウスト」の太田克史さんに、時間を無駄にしている、みたいな苦言をされてしまうのだ。うーん。いや、まあ、太田さんは僕らの本を買って行かれたけれど。
みなさん、ご迷惑をおかけしたかもしれませんが、カンタン系に足を運んで頂き、ありがとうございました。就きましては、僕の文章などより平瀬如さんの詩をじっくりと堪能してください。
文学フリマは盛況でした。僕のところもお零れに預かれたようなもので、知り合いの方々に久方ぶりにお会いしたり、インターネットでお名前を知った方に出会えたり、僕が何者か知らない人もいらっしゃったりして、いやもう文化でコミュニケーションが取れてしまったのだから、素晴らしいよなあとつくづく感じ入る限りでした。
本が仕上がる。いろいろと問題のある本となった。問題というのは内容ではなくて、むしろ形式に関することだ。余りのことに幼なじみと笑い続けた。
終わり近くを駆け足にして書いたら、書き終わった。原稿用紙換算がえーっと…15枚越えたのか。見込み違いだ…。
デリダが記号についてどんな風に考えていたかを文章にするところで躓き中。頭の中ではあれがこうして云々みたいなモヤモヤがある。モヤモヤを文章にできない。参った。手詰まった。遊びに行きたい。
後輩に僕の逃避プロセスが読み切られていた。くやしい。
同じようなことを思った方は、お誘い合わせの上いらしてはいかがでしょうか。って、僕は事務局ではないのだけれど、参加者からもこういう呼びかけが必要な気が少ししたので。
この時代の文学と表現のために。では。逃避プロセスを一旦終了します(Kiss→Cくんに見破られていたか…)。
大ピンチです。佐藤友哉論は明日深夜に書き終わりそうです。ということはフリーペーパー的な扱いにしかできなそうです。つらい。最悪落としそうだ。というか僕一人が2日間で何枚生産するのだろうか。めまいがする。いや、せいぜい原稿用紙10枚くらいだと思うけれど…いま見直したら、佐藤友哉論というか『水没ピアノ』レビュー文はさほど修正が要らないようだった。ていうか、根性で仕上げるか。これは原稿用紙4枚くらいかなあ。ええっと。書き終わる予定だったオタク論が原稿用紙3枚くらいでストップ(時間がない)。ということは、えーえー………トータル10枚ちょっと書けば僕は許されるのだろうな。そう考えるとしよう。アルコールが入ったので、そろそろ限界だ。一旦寝てまた書きます。許してください。許してください。
小腹がすいたので、カレーという美味なる食物を頬張る。辛い。あと幼なじみと話していたのだけれど、20文字×200行書いた、と話したら原稿用紙10枚分なのか5枚分なのか互いにわからなくなった。
原稿用紙5枚目に突入。ところで、今回の文学フリマにカンタン系のお客様はどれぐらいいらっしゃるのでしょう。確実と思われるのは6人ぐらいなのです。じゃあ6部しか作らないでおこうか。そう口にしたくなる原稿作成状況であります。が、実際の所は何人ぐらいお客さんが来るのでしょう。全くというほど予想が付きません。誰か数字が見えた人(超能力なども可)はメールかはてなダイアリーのほうに書いてください。参考にします。切実。
ストレスがたまってきたので友人たちに電話をしたら、誰も出てこない!おれはこどくだ!そんなわけで、いまようやく「世間で流通しているラカンに関するはなし」を書き始められそう。それが終わったら……なんだったんだ。……そうか、あれは蜃気楼だ…
1時間かけて原稿用紙2.5枚分の文章を書いたのだけれど、全体の1/5ぐらいしか終わっていない気がする。やばい見積もりを誤ったか。本当に終わるのか。
今日はこれからルーマン『社会システム論』をよむつもりなのだけれど、どこまで読み終えられるかわからないなあ。文学フリマ用の文章を改稿して、明日午後13時ぐらいに書き終わって印刷できないとなあ。
『残響』を引き取ってくださる方が見つかりました。ありがたいことです。明日メールをお送りします。本日は体力が限界に近づいております。
このサイトはアマゾンアソシエイトに参加している。そうすることで、これまで考えもしなかったことを多少考えるようになった。詳しくは全10巻を予定している『ナポレオン・ソロ式にアマゾンアソシエイト――スパイも週末起業――』を読んで頂くことを期待したいが、そんなものの出版予定もなければ、全10巻の膨大さはそもそも必要ありません。
が、しかし。
それで、収益金についてなんだけど、これは僕と幼なじみとWresくんという貧乏神トリオで山分けすることになっている。でも気づいた。山分けして、ひとりひとりに送金するなりする手数料を考えると、手数料の方が大きいんじゃないかって。吉本興業が売れない芸人に100円単位でも振り込んでいるのをバラエティ番組でみて、よく笑ってたけど、あれと同じじゃないかって。
でも、こういう細かい流通で人間関係と義理と人情と社会は成り立っていると思うので、ちゃんと送金するつもり。ヤッチマイナ!(流行語)
きょう神保町の古本市にいったら、なくなられた教授の本が売っていたんだ。教授の本の中では売れた部類の妖怪に関する本。僕は柳田と鴎外について論じていた書籍が一番教授らしい書籍だと思うのだけれど、やっぱりこういう本でも教授のことを思い出さずにはいられない(日本霊異記なんて読んでないにしても懐かしい響き!)。生前は刊行が予定されていたはずの全集もいまは噂すら耳にしない。もしかしたら買っておくべきだったのかもしれない。筆名が数多ある教授ではあったのだから、著書一冊で何とかなるとは思わないけれど、いつか訪れるかもしれぬ「そのとき」のために。そんな気がする。
会社の偉い人が僕の席までやってきて「いっしょに神保町の古本市へ行こう!」と仰られるものだから「お供します」と体調が不完全なのに二の句を継がずに口にしてしまって楽しい古書狩猟をしてしまった。偉い人は、田部重治のロマンチックな文章も掲載された山岳紀行文集を買い求めていらっしゃった。きっとブロッケン現象とかについてロマンチックに文章を書いてるんだろーなー。
スティグリッツ『新しい金融論―信用と情報の経済学』が10/31に発売予定のこと。貨幣と情報はともに僕の関心領域なので、ぜひとも読んでみたい。さわりぐらいでも。まあ、経済学をろくに学んだことのない僕じゃあ、しんどいのかもしんないけど。
僕はさいきん小さなコミュニティとコミュニティの間のことを考えるようになった。いや、この言葉はあまりしっくりこない。なんといったらいいか。そういうかんじのことは前から考えてはいた。でも、そういうことを口にしてもしっくりこなかった。そんなとき年長の方に、つまり違う人間同士だと言葉が同じ意味にならないということ? と尋ねられたときに、ようやくコミュニティなどで言葉の意味することが異なることがあることに気づけたのだった。こんな手探りを互いにしながら前に進もうとするコミュニケーションがとてもありがたくて、僕はまずそのひとに感謝したいと思って、いまちょっと文章にした。こういったコミュニケーションがなければ、僕は数日前に書いたような文章を書いてませんでした。
ところで、僕のイモウトには、はてなダイアリーよりeverydiaryの方が好評。
都合10数時間眠ったので、多少起きなくてはと思って起きた。
そこで積ん読していた薄いハードカバーの本を読む。チウェの『儀式は何の役に立つか』(新曜社)は面白かった。情報と物質、時間と空間といったことを考えているのが、ここ最近の僕だ。けれども、この本は、そういう枠組みに囚われずに「情報を共有」すること、その手法として効率の良い儀式について考察されている。
ルーマン『法の社会学的観察』は読んだけれど、ハッキリ言って歯が立たない。もう歯がボロボロ。ただ、ルーマンが『近代の観察』でデリダへの支持を強く表明していることが、多少わかるというか。いや『近代の観察』にある要約の方がわかりやすい。それで、そういう支持をしたら、ルーマンがコミュニケーションについて考えていることを僕は予想して読んだけど、ほんのすこしだけかすってた。朧気ながらルーマンが見えてきた(意識システムと社会の関係をルーマンがどう捉えているのかしっかりと知りたい)。というか、自分なりに興味を持って読める部分がわかってきた。
朝起きると気味の悪い汗。体調不良。
ホシヒコさんの「ロマン主義」に関する文章を読み直して、すこしぼんやり。やっぱり寝て休む。
自己批判のためにも、と北田暁大の論文を読まねばならないと思い、「世界」を探したかった。今日は忙しくて探せなかった。
もっとも、だからってメッセージを伝えることに不安を感じることを「ロマン主義」と呼んでよいのかわからない。自己の内面と世界とのギャップを感じるところに「ロマン主義」があるのだ、というのがルカーチが定義したことのような気がする(ここも勉強し直さないと)。けど、いま問題になっているのは、というか問題と強く意識にのぼるようになったのは、自己と世界をつなぐ言葉とのギャップだから、ちょっと「ロマン主義」と括ることで見えづらくなるというか誤解が生まれやすくなる気がするのだ。
忙しくて阿部和重『シンセミア』買えず。
山口舞子の「もうすこしがんばりましょう」はふつうに面白いと思う。笑木田しいの後継者だと僕は考えるけれど、ふつーに読んだら「ポストあずまんが大王」なんだろうなー。
文学フリマから封筒が届く。
来週は文学フリマ関連(というか原稿書き直し)で忙しそうなので、いまのうちにまとめて更新。ともかく今月のオススメ。斜め読みでも読み終わったものを中心に。
万人=万人向け
俺=faira一人向け
謎=謎
参考文献とか注釈のできが微妙な気が。ただ構造主義およびポスト構造主義をギデンズがどう受け止めたかがわかりやすい。
時間が無くて…本当はもっと読める良い本と思うのに。けれど、ようやくミンスキー『心の社会』コンプレックスを乗り越えられそう。認知心理学。
とても心が和む。物質性について思考し得た文学者。
再読。作者本人はかつて「週刊新潮」でネットをよく見ると仰っていました。明大教授を引退してから御余裕がおありのようです。ちなみに江國香織の「きらきらひかる」のタイトルはこの詩人の詩のタイトル。村上春樹のランゲルハンス島もか。どちらの詩も所収。
物質性と言語(と実体の関係)が気になる向きには、いろいろと考えさせてくれる本。のちにプーレや見田宗介に引き継がれるモチーフもあり。社会学の記憶の概念を形成するのに影響があったのでは、と学科が異なる僕は少し考える。
リフレイン。リフレイン。藤田省三の言葉を再度引くこととしよう(これで2度目か3度目かだ)。
小林秀雄は、小林の取り巻き連中の愚劣さに出会ってから嫌になった。小林は人をたらしこむ置屋の婆だと思った。置屋の婆が、遊女に言い含めるのと同じような畳みかけのリズムが散りばめられている。「本当に見えたのである。見えすぎるほど見えたのである」といったような。だから女の子や女の子のような男の子(文芸評論家などはそうだ)は、その性愛術にまいってしまう。小林はいつも対応物がない。対応物を考えない。小林の言葉で言えば、すぐに「参入」してしまう。それまでの「平和」を忘れて「戦争」へと参入してしまう。おまけにいつもクローズアップだけ。ベケットの『追い出された男』のような、屑のような、ゴミのような人間を描くことはない。
信玄餅を頬張りながら書きたいのだけれど、関川夏央が朝日新聞に書いた文芸時評は今回も今月の作品動向が概観できて素晴らしかった。彼の時評を信ずるならば、阿部和重『シンセミア』は、監視社会化しつつある社会を描くことに成功しているらしい。ところで、僕は敢えて主張というか、そのような評価をすることで阿部和重という作家を讃えてみたいことがある。それは、彼にとって「監視」ということは『インディヴィジュアル・プロジェクション』前後からモチーフとされつつあったということだ。あの小説の文庫版解説もそのような特徴を指摘している。
つまり、とある少年の犯行が監視カメラによって再構成され、逮捕に繋がる。そのような社会を予見しようとする作品を5年以上前から阿部和重は書いていた。社会を予見することは、作家にとってちょっとした誇りであって良いはずだ。
「反帝反スタ」を叫んでいた元青年が登場したりする宮本佳野『Are You Enemy』を読み直し。
僕はランチをとりにでかける。途中で昨日少し立ち寄れた書店で、またSFの本が覗ければ良いな。あと図書館で必要そうな本を借りる。ちょっとした定点観測みたいな作業だと思う→トムスン『イングランド労働者階級の形成』を購入してた!驚いた。それから家族と合流。あ、あと本を探しておかないと→見つかった。
network styly *のscmrさんがWeblog騒動などをまとめている文章を読む。
僕は、さいきんはシンプルに考えるのが好きなので、もっとあっさりと考えた。
それをJBAというひとつのコミュニティが他のコミュニティの介入を(わりあい)遮断して、行っていたことが批判が様々な方面から長く続いた原因だと思う。コミュニティ間のコミュニケーションが乏しかったことが決定的だった。そう思う。インターネットでは、他人(他のコミュニティ)からの評価を待つこともコミュニケーションとして非常に重要な気がする。
よくわかりそうな気がするだけ、言葉にしたいのだけれど、言葉にするのが非常に難しいので、言葉にしづらいというのは、言葉を伝えたい側のひとにも僕にも、あまり良いことではないのかもしれないなあ。なんて思ったときは、ネガティブの権化かと思っていた大江健三郎が若い人に向けてニュースステーションで繰り返したキーワードを思い出す。「元気を出そう」。とてもシンプル。あんまし、ひとに迷惑を掛けない程度に、みんな、がんがろう(?)。
さいきん、いろんな方が「面白い、薦めねばならぬ!」と口にしているグレッグ=イーガンの小説を買った。とにかく最新刊よりも『祈りの海』だ!ということらしいので、『祈りの海』の冒頭にある短篇「貸金庫」を読んでみた。
僕の乏しいSF経験から推し量ると、イーガンの「貸金庫」は、J=G=バラードが『時間の墓標』に収めた短篇「ある日の午後、突然に」で表現しようとしたことに少し似ていると思う(「わたし」というものを「わたし」として保証するものに対する意識とか)。
バラードは第三者的な視点から、というかバターのついたパンはバターの付いた側から地面に落ちることを避けられないようなことを悟った口ぶりで描く。でも、イーガンは、その悟りに至るまでに人間が抱く切実さを繊細に描こうとしている。そんなかんじ。面白い。
転送設定しおえたはず。
この数日はろくに寝ていない。メールの転送設定をしおえていない。携帯にメールが転送されないと困るのだけれど。疲れているので本がちっとも読めていない。会社のプリンタを移動したら、印刷できなくなった。設定が狂ったのか、どうか。そんな話をしていたらプリンタの責任者の方が、「こういう、ときは、こうやって」と口にして、唐突に三度プリンタをゆっくりと撫で回した。しばらくしておもむろに「こうすると…」と語り出し、プリンタの電源を入れながら「うごかない」と誰もが予想していた結論を述べていた。そんなこんなあった一日。出口はどっちだ。明日はもうすぐだ。
机上の空論じゃなくて、デスクトップにある現実を語ることが、いまの僕はすこしできているので、それを文学フリマに出す本に書こうかと思った。